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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(35)

迫害

 やはりナショナリズムの影響で日本人の新年会に、カマラーダが数名乗り込み、ファッカや山刀を振り回し、ケガ人が出るという事件も起きた。彼らは、いつも、武器を腰に下げていた。警官に偽装したギャングも現れた。
 戦時中には、私服の警官が植民地に入り込み、皆、いつ嫌疑を受けて連れて行かれるか、戦々恐々としていた。日本語で挨拶しただけで豚箱に入れられた。下っ端の警官がやってきて血眼で家宅捜索をし、武器を探し回わった。見つかると取り上げ、所持者を連行、留置し、出る時は身代金を要求した。

旱魃、霜……

 戦後のカフェー景気では、サンタ・マリアナも潤った。が、1963年、旱魃が半年続き、以後ほぼ3年おきに大霜に見舞われた。しかもカフェーは老樹化していた。ために(同地の農業者の多くが属していた)コチア産組が、対策を研究、代わりの作物として葡萄を選び、間島技師が指導に当たった。
 奥山家では1967年、長男の弘一さんが栽培を始めた。「傾き出した家運の挽回を葡萄で図ろうと志した」と、孝太郎さんの回想録にはある。
 1970年に成長の悪い樹を整理した。ところが、その時、見落とした樹から新種が芽生えたのである。その「赤色を帯びた小房」を最初に見つけたのは、母親の文子さんであった。葡萄園は前記の様に弘一さんが造ったものであった。が、当時は父親の孝太郎氏の代であったため、この件に関しては、社会的には同氏が表面に立った。以下、既述の経緯となる。
 間島技師によれば、その後、ウーバは新品種が出たため、ルビー・オクヤマの栽培は減少した。が、まだ続けている処もあるという。

田中義数

 筆者は、本稿でアルマゼンというものに注目し、しばしば触れているが、サンタ・マリアナでも、これで成功を収めた人がいる。名前は田中義数といった。
 1932年に入植、カフェーを栽培、三年後、町に出てアルマゼンを開いた。戦時中、サンパウロ市に移転、農産物の仲買で成功、戦後、ガルボン・ブエノ街に5階建てのビルを建て、中で映画館やホテル、レストランを経営した。
 これは、この日本人街の中心的な建物となった。が、やがて、そこを通る高速道路が建設されることになったため、取り壊された。
 その後、田中は段ボールの生産を企て、三菱系の製紙会社の参加を得て、工場建設に着手した。が不首尾に終わった。日本から来た技術者と、意思疎通がうまく行かなかったのである。同じ日本語で話していても、意思が通じなかったという。結局、喧嘩別れのような形になった。

 近況

 2015年、サンタ・マリアナの文協の斉藤勝利会長に聞いた所によると、このムニシピオには、多い時で計70家族くらいの日系人がいた。現在は52、3家族で、半分近くが20~30アルケーレスの規模で、大豆を主にセレアイスを栽培している。カフェーを栽培している人も居る。ただ、ここも殆どが町に住んでの通い農業だ。かつて三カ所あった植民地は名前のみになっている。町には文協があり、日本語の教室を開いていた時期もあるが、生徒が居なくなり、かなり前に止めた。
 戦後のカフェー景気の時には、有志たちが、隣のレオポリスという所へ新しい入植地を造り、新興植民地と命名した。最多時25、6家族居ったが、今は2、3家族しか残っていない。