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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(1)

在りし日の知花真勲氏

在りし日の知花真勲氏

出発

 私のブラジル移住は、沖縄出発の時から平穏ではなかったように思う。
 先ず、神戸の移民斡旋所で出国手続きや移住者への講習を受けるために船倉荷物を那覇港に残して私達は、手荷物のみを持ってチチャレンカ号に乗り込み那覇港を出発した。
 ところが、出発してから数時間の航行中に暴風に巻き込まれ、奄美大島の名瀬港に寄港を余儀なくされた。神戸に到着したのは3日後であった。斡旋所で諸手続きや講習などに一週間を要し、いよいよブラジルに行く移民船チチャレンカ号に乗船して神戸港を後にした。
 荷物を乗せるため那覇港に寄港するはずであった移民船は、航行中再び強い暴風に見舞われ、とうとう寄港することもできずに、親戚や知人との最後の別れをなす術もなく、無言の別れを余儀なくされた。
 うしろ髪を引かれる思いを断ち切れないままに故郷を後にして、次の寄港地ホンコンに向け、南下せざるをえなかった。
 沖縄からの旅立ちと同時に暴風、そしてまた、暴風に遭遇し、暴風に吹き飛ばされた感じで心淋しい思いであった。
 更に、私達第4次移民者は、県や村から一銭たりとも支度金もなく、地球の正反対の位置にあるはるか南米ブラジルの地に少々の小遣い金を持参しての旅立ちだった。
 これから書き綴ることは、たとえ乗り越えてきた「私の過去」とはいえ、なんと「無謀」なことであったか。やり場のない怒りと悲しみがこみ上げ、苦渋をかみしめることなしには語り得ない、「私にとってのカッペン移民」である。
 家族は夫婦と子供5名の7名家族だった。
 港には、当時の在伯沖縄協会事務局長の屋比久孟清氏、移住者の先発隊々長比嘉徳行氏外、大勢の関係者の出迎えを受け、早速入国手続きをすませた。
 関係者とコーヒー店に足を運び、初めて見る真っ黒いコーヒーが小さいコップに注がれていて砂糖を小さじ2、3杯いれて飲むとハチミツのように濃く、しかも苦くて飲みにくかったことがブラジルの初印象だった。
 下船して時間がたち婦女、子供達は空腹をかかえておるところに、サントス在住の県人達がオニギリやパン、ソーセージなどを恵んでくださり、このご厚意がひとしお胸にしみた。
 同日の晩、いよいよ我々第4次隊は、用意された汽車で新天地に向け、サンパウロを出発、長い汽車の旅の末に最終駅のマット・グロッソ州カンポ・グランデ駅を中継地として、そこで下車することになった。
 サンパウロから約1300キロもあるこの地域には、沖縄県人の戦前移民の方々が大勢おられることを知らされた。移住荷物を乗せた貨車が2日遅れになるので、その間私達は、旧移民で恩納村仲泊出身の石川盛徳さんが経営しているペンソンにお世話になり、3日間宿泊した。