復員とは、戦争が終わり兵士が故国に引き揚げることをいう。
今年、日本は戦後70年を迎えた。70年も経てば、人はみな高齢に達し、生き残った人は僅かで、戦争を知らない世代の時代となった。
私は大正15年(昭和元年)生まれで、終戦を数え歳20才で、シナ大陸華北青島の海軍航空隊で、航空兵として迎えた。
当時の青島(チンタオ)は、元ドイツが委任統治していた都市で、第一次欧州大戦後、日本がこれを受け継ぎ、日本の統治下にあって民間企業が進出。日本人街などが栄えていた。日支事変勃発に伴い日本軍の兵站基地となり、敵国領でありながら圧倒的な日本軍の制圧下に、平穏な市民生活が保たれていた。従って、我われの航空隊も訓練基地として置かれていたもので、実戦からはやや遠い雰囲気にあった。
ところが昭和20年8月15日、終戦の日を境に状況は一変。青島湾に進出した米空母発進の艦載桟の編隊が超低空で我が航空基地を目標に威嚇飛行を繰り返し、我が方は無抵抗のまま手を拱いて米桟の威嚇に耐えねばならなかった。実に無念の思いであった。
やがて撤退の日が訪れた。隊ではそれまで、毎朝司令部前広場に全員整列し、軍艦旗の掲揚をもって朝礼が行われていたが、この日は同じく司令部前広場に集合、航空司令の悲痛な訓示に続いて、軍艦旗降下式をもって永遠にこの地を去ることとなったのである。
そして我われの撤退と入れ違いに現われた中国正規軍の姿は、この地で初めて眼にした敵国軍隊であった、この時に味わった無念の思いは今も鮮明によみがえる。
その後約3ヵ月を帰時収容所で過ごし、我われは青島港より米軍の上陸用舟艇に乗船、故国へ送還されたのである。敵前上陸用のこの船は、現在のカーフェリーと同じような構造で、下甲板が一面倉庫で戦車や砲車など大型兵器を搭載するスペースになっている。我われは、この鉄板の甲板にめいめい持参の毛布を敷き、ザコ寝で3昼夜。玄海の荒波を越えて4日目の早朝、懐かしの故国九州佐世保湾口に辿り着いた。
この時に眼に入った日本特有の優雅な島影の美しさ、懐かしさ、そして安心感は忘れることのない印象である。
帰還船は湾の一角に接岸、下船するや待機していた米兵から一人一人頭から消毒用のDDTの白い粉を掛けられ、各自持参の荷物を肩に山越えで旧海軍の針尾海兵団に到着。広い板の間で一夜を過ごして、翌日最寄りの南風崎駅より臨時の復員列車に分乗し、それぞれの故郷に向かったのである。
その列車たるや石炭積載用の無蓋貨車である。これに頭から風除けにテントを被らせられて、夕方出発、翌朝博多駅に到着した。私はここで後続のエリー航客車に乗り換えて、満員の中に割り込み大阪へ向かった。その列車内で、初めて内地の人びとに触れたとき、復員兵に注がれた冷たい視線が忘れられない。そして、途中通過した広島では、原爆によって破壊し尽くされた惨状を眼にして、敗戦の厳しい現実と人びとの心の荒廃をひしと感じた。
翌朝、大阪駅に降り立ち眼にした駅前広場の光景は、一面の焼跡にヤミ市のバラッカが立ち並び、あちこちに戦災孤児であろうクツ磨きの少年がたむろする姿。またも敗戦の厳しい現実を思い知らされた。
戦争末期、米軍機の無差別都市爆撃によって、国内の都会はほとんど焼失する惨状にあったが、もちろん大阪もその惨禍に遭っており、我が家は果たして如何かと案じつつ3年振りに戻ると、家は幸いに焼け残った一画にあって焼失を免れていた。
その夜は両親を囲み互いの無事を喜び合って、ささやかながら団欒の夕食をいただき、尽きぬ苦労話を語り合う一刻を過ごしたのであった。かくて青島出発以来一週間目に、畳の上に懐かしい布団を敷き、倒れ込むように寝床に入ったが、その時のまるで真綿の中へ吸い込まれるような温かく柔らかなあの感触は、口で言い表わすことのできない心地よさであった。
人間は極端に不自由な目に遭うと、こんなにも平素何でもない事柄に大きな歓びと感謝の気持ちが湧くものかと、今でも鮮明に憶えています。
以上、これは私一個人のささやかな終戦時の体験であるが、母国に帰還してみて、国内に残った人々が戦争末期に受けた米軍の大都市無差別空爆や、地上の動くもの全てを狙った艦載桟の地上掃射、更には海上からの艦砲射撃の恐怖等々。生々しい話を聞かされて、近代戦では国の内も外もない。国民全てが戦争に巻き込まれるのだ、という実態を身をもって思い知らされたのである。
あれから70年。当時の生々しい話はすでに風化し過去のものとなって、今や戦争を知らない世代が大半を占める時代となった。しかし、先人が苦難を乗り越えて辿った血と涙の歴史は、今も厳然として存在するのである。
ところが、その祖国の正しい歴史を知らず、知ろうともせず、先人の過去を否定し自虐史観に捉われた国民感情が根強くあることを知って、誠に残念に思う。正にこれは民族の悲劇である。
今こそ、心ある者からの過去の歴史を冷静に学び直し、真実を直視して、胸を張り自信を持ってこれ迄の戦後復員の実績を踏まえた平和国家の姿勢を世界にアピールしてもらいたい。積極的な世界の平和と安定への大道を、拓らく着実な歩みを進めてもらいたいものである。
これが多年、海外に在住しながらも、常に祖国を外から眺めつつその行方を見守り続ける一老移住者の切なる心情である。
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