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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(2)

沖縄で結成された民間移民者組織「ブラジル移住地創設準備会」

沖縄で結成された民間移民者組織「ブラジル移住地創設準備会」

カッペンへの道―過酷・辛苦な道のり

 見ず知らずの他人でありながらの親切心に、「イチャリバチョーデー(一度会ったら皆兄弟)」のチムグクル(真心)に胸が熱くなったことが思い出される。
 駅で荷物を受け取り、次の目的地に向かった。3台のトラックを借り受け荷物も人間も一緒に乗り合わせて、約900キロの行程のでこぼこ道を、昼夜を通して3日2晩をかけて2番目の中継地・クィアバー市に到着することが出来た。
 このクィアバーの町が買い物の出来る最後の町であるとのことで、そこで二日間滞在して当分の食糧や必需品を買い求め、現地への出発準備を整えた。
 いよいよ三日目の朝、最後の移民隊として沖縄からの古い家財道具、荷馬車道具、農具類等、その大きな梱包に加え、買い求めた生活必需品等トラック三台の荷物を積み替え、満載した荷物の上にまたもや人間を乗せて目的地・カッペン植民地にむけて出発の途についた。
 しかし、カッペン移住地までは、更に600キロの道を走らなければならない。ところが150キロほどまでは難なく進んだが、その先に道らしい道はなく、風雨で倒れた大木がトラックの行く手をさえぎり、これをさけるため両側の大小の草木を鋸やオノを使って切り分け車道をつくって進む。
 しばらく進むと今度は、風雨で出来た砂の道が現れ、行き先を阻んだ。道の両側は、水の深い小川の流れとなっていて、砂道を越えるにはトラックの積荷が重くて、たちまちタイヤがのめり込み前進出来ない。
 今度は、鋸、オノを使って木を切り出し、タイヤの前に敷きつめ少しずつ前進させて、のめりから脱出していく悪戦苦闘が続く。その間老人や女、子供たちは手に汗をにぎりながら見守る有様。おまけにモスキット(シベー)にさされ、身を守るのに、まさに「苦闘」の連続であった。
 やっと砂道を脱出したかと思うと、今度は数十キロのカンポ(野原)道が続き、女、子供が用を足すのに数十分の休憩をとるため、ちょっと茂った木を利用しての用足しであったが、ブラジルのカンポは、血の気がする生き物にめがけて、血を吸う無数のムシケットが群がり、用をたすにも命がけであった。間もなくして前方に川幅150メートルぐらいある大きな川が見えた。
 この川にかけられたバルサといって、向岸に渡るため端から端に太いワイヤで、木造船二つを組み、その上にトラックや他のものを載せて渡すしくみになっている。このような危険このうえないバルサによる命がけの渡河作業を無事通過して胸をなでおろした矢先、またまた前方にこれまでと同じ川が二つも三つもあり、丸太棒大木で橋がなりたっており、そこを通過して目的地に到着するのであった。