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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(38)

開発地から現れた髑髏

開発地から現れた髑髏

髑髏、現わる

 一人になった武雄は困惑した。幸い、前出の総領事館の斉藤の世話で、支配人にしかるべき人材を得、購入地の開拓に着手した。その時の写真が残っているが、中に衝撃的な一枚がある。人間の髑髏が三つ並んでいるのだ。森林を伐採、山焼きをして整地中に、偶然、発掘してしまったらしい。この地域の事情通が、それをインヂオの骨と鑑定したので、読経の上、再埋葬した。
 それはともかく、整地した土地には、1万5千本のカフェーの苗を植えた。それが済むと、武雄は後を支配人に任せて、一旦、日本に戻り復学した。翌1930年に結婚した。相手は、いわゆる良家の令嬢であった。1年後に卒業、夫人を伴って帰伯した。
 この間、農場では6万本のカフェーを増植していた。二人が到着後、さらに7万5千本を植え、計15万本とした。無論、収穫は未だ始まっていない。
 以上の行動は、既存の移民たちから見れば、青臭く、大金持ちの坊ちゃんの道楽に見えた。「今に逃げ出すだろう」と噂し合った。実際、農場は、この新婚夫婦が堪えられる様な環境ではなかった。髑髏の出現一つをとっても、そうであったが、周囲は山また山で、オンサ(豹)など野生の動物が、しばしば姿を現した。太陽が原始林から昇って原始林に沈んだ。

悲嘆のドン底に…

 2年経った。
 二人は、逃げ出さずに健闘していた。農場では、15万本の若々しいカフェー樹が、見事に育ち、翌年は愈々、収穫が始まる……という処まできていた。
 ところが、この1933年6月、突如、大降霜が襲来したのである。一夜にして15万本は茶褐色に変じた。「死闘の努力も夢幻の如く消え去り、悲嘆のドン底に蹴落とされた」と手記にある。
 この時、日本で被害の報せを受けた父親は、息子に、
「憂き事の尚この上に積もれかし 限りある身の力ためさん」
と打電した。江戸時代の儒学者、熊沢蕃山の作とされる歌である。
 武雄は、これに鞭打たれ、捲土重来を期そうとした。が、被害を受けたカフェー樹の回復は、順調に行っても3年はかかる。父親の資金援助を得ようとしても──日本政府が1931年から金輸出の再禁止をしていたため──送金の道は閉ざされていた。一方で、農場のコロノが間作で栽培している雑穀類は、市場が小さかったため、買い上げてやらねばならなかった。
 手記には「資金不足は一日一日と窮迫の度を加え、言語に絶する辛酸を嘗めた」とある。何度も挫けそうになった。ここで諦めていれば、後宮武雄は、恥を晒しただけで終わったろう。が、そうはならなかった。キヨ夫人に、「頑張ってください」と励まされ、(女が辛抱しているのに、男の俺にできないことがあるか。今へこたれたら、一生頭があがらなくなる)と奮起したのである。
 別掲の写真が、そのキヨ夫人である。日本女性の優しさと品を漂わせる美人である。
 その後、カフェー樹は回復に向かった。肥沃なテーラ・ロッシァの地力のお陰だった。しかし世界のカフェー市況は極端に低迷、ブラジル政府は余剰分を焼却するという非常手段をとっていた。
 そういう中で、どう資金繰りをしたのか、手記は触れていない。が、この時期、設備投資をし、さらに8万本の増植もしている。何らかの方法……例えば東京で信太郎が清算するという形で、リオに支店があった横浜正金銀行から融資を受ける……といった類いの工夫をしたのかもしれない。(これは別段、違法ではない)  
 ともあれ、危機の切り抜けに一区切りついた1936年、両親に報告のため、家族で日本へ向かった。前年、男の子が生まれており、信太郎には初孫であったので、ひと目見せようとする気持ちもあったろう。この男の子というのが、現在の農場主、後宮良威氏である。