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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(4)

原始林の切り倒しの様子

原始林の切り倒しの様子

 ちょうど種蒔時期で寄せ焼きにいそしみ、初めての主食・米の種蒔で賑わい始めた。その意気込みは大きく期待に応えるかのように稲の発芽は思いのほか早やかった。
 ところが、稲はなかなか伸びず、生育がおもわしくない。一方、トウモロコシを種蒔してもこれまた同じで、発芽して20糎ほどのびると、そのまま生育せず紫色に変わり、枯れて行くありさまである。その時はじめて酸性土壌であることを知り、退耕者の続出に気が付いた次第であった。その頃の衝撃は、今も忘れることができない。
 残った先輩移住者(1次、2次の方々)と私達は、月日がたち食いつなぐ作物の植え付けがようやく済むころになり、ふと思い出し不安となった。この地に入植をして来た時の道のりのことであった。

 旧カッペンからここまでの道が5、6カ月の間に風雨により大木や草木に閉ざされるのではないか、と心配となり、皆の頭痛の種となった。そこで居残った総員の相談の結果、約40キロに及ぶ路の整理を共同作業として行こうことになった。
 年寄りと子供を家に残して、鋸やオノ、鍬、スコップなどを持ち、昼は薄暗い6、7時ころまで働き、夜は路上にテントを張って皆でゴロ寝した。夕食、昼食のすべてを共同炊事で、若いご婦人が担当、一晩中火をともして朝を迎える。このような日々の連続であった。
 この道路は、残された我々にとっては命をつなぐ大切な道路であり、雨期になると泥沼化と倒木で車が通れなくなる。そのためには、定期的に作業を続けなければならない。
 このような条件下にありながら、私達は、将来に夢をかけて一生懸命頑張った。留守をしている年寄りや子供達に気をかけながらの作業であったが、ようやくそれも終り急いで帰宅した。
 あくる日から、入植最初の作物、米の収穫が不作ながらも子供達も総出で始めた。ところが、3俵の種を植えた稲を刈り取って収穫した量は僅か12俵の籾で、しかも沖縄語で言う、シピジャーだらけだ。
 他の家族も大体同じである。仕方なく次年度の作付けに希望を繋ぎ、家族全員が精を出して頑張り通した。月日が経ち、1カ年余が過ぎた。途方にくれながら、しかたなく同じ作物の植え付けを繰り返すのみであった。
 やがて雨期が到来し、雨の日が続くようになり恐ろしい風土病・マラリアが蔓延し、その脅威の中で犠牲者が続出するに至った。
 私の家族の入植時の家族構成は、12、10、8歳の娘と、6、4歳の息子、それに私達夫婦、合わせて7名であった。他の入植家族も若者が多く、1カ年を経過するうちに二世の子供が誕生するようになり、目出度さが続くようになった。わが家族にも男の二世の子が誕生した。
 この目出度さの後に、マラリアが襲いかかってきた。毎日開墾作業のため疲れておる身に、食生活の不均衡、そのうえ体を酷使しているために体調に異常をきたすようになり、かつて経験したこともない高熱の風邪症状の病に襲われた。