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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(5)

山焼きの跡に立てられた移民小屋

山焼きの跡に立てられた移民小屋

 他の家族の人々もこれに感染した。カッペンは、最初から医療施設もなく、無論医者は一人もいない。手の施しようも無く、日本から持参してきた少量のマラリア薬とか、熱さましなどを服用させ、その場しのぎの有様であった。
 数日がたって、若い18歳の又吉青年が危篤に瀕した。高熱と震えがとまらない。500キロもあるクィアバー市に、オンボロトラックに青年を父親とともに乗せ、医者に診てもらうために出発させた。
 ところが明朝になって、トラックが帰ってきた。道中で息を引き取ったのである。この青年がマラリア第1号の犠牲者となった。
 他の病人達も、日々を重ねるごとに体が弱るばかりで、見るに見かねる状態のままに、またしても犠牲者がでた。私達は、苦しみと悲しみにうちのめされて、悲痛な絶望感で押しつぶされそうになった。
 病人は弱るばかりで、家族は仕事も手につかず、その日その日を病人と過ごすばかりであった。犠牲者は相次ぎ、1カ月少々で6名が亡くなった。その中の一人に、私の子も含まれていた。
 このような中で、親、兄弟、子供を亡くした家族はもとより、ほとんどの仲間たちが病身となり、もはやこの地に居とどまる心地がしない、と口を揃えて話し合った。そして、いさぎよく退去することに総員が決意を固めた。そこで、元気な若い青年2、3名が組んで行先視察調査に出てもらった。彼らが一日も早く再移住地を探して、迎えにくることを神に拝むようにお願いするばかりであった。

撤退―無残を背負いつつ

 早速、青年たちは、クィアバー市とカンポ・グランデ市との中間地のCapim Brancoにあるブラジル人所有のファゼンダに行きついた。
 そこには1ヵ年前に退耕したカッペン移住者の方々が居られて、その方々を頼んで同じ耕地に入れて貰うように耕主に交渉してもらった。それが成功し、この外人ファゼンデイロが経営する大耕地に移住することになったのである。
 勿論、カッペンからは後戻りの約800キロの道のりで、皆が移動する資金も皆無で、移動費、食料費、農機具、生活費などを貸していただくようにと懇願した。そして、すべて願いが叶った。
 そして耕地主と相談し、トラックを3台ほど出してもらうことにして、これで残留の8家族が一緒に退耕することになったのである。
 ところで、いざ退耕となれば、先ず犠牲になった方々をそのまま置いて出るということもできないで、一緒に連れていくため、枯木を集めて火葬を行い、犠牲者の遺骨を整えた。
 皆疲れ果て、それでも移転入植の夢で、励まし合いながら、迎えのトラックを待ちわびた。幸いに人々は、病魔から脱し、元気を取り戻しており、新しい移転先の旅程は安心できた。