出迎えのトラックが、3名の青年と共にやって来てすぐに積荷を始めた。3日目に積荷を完了し、全員がカッペンを後にした。
カッペン耕地を出て、入ってきたコースを悪戦苦闘しながら走り抜け、新しい耕地に入植した。この新開地もまた、最初から森林の開墾、掘立小屋の新築と、昼夜についで全力を尽くした。例のとおり、主食の米の植え付けが最優先作業だった。
ところが、この年は旱魃が続き、植えつけた稲穂は、白くなり実を結ばないまま全滅し、そこでもまた泣かされた。一期作の米の収穫もしないうちに契約上で退耕する月日に近づき、おまけにこの一年の生活費等の借金は重なり、1カ年の苦労が水泡に帰した。
その上、退耕するさいに借金を支払わねばならない。しかし、私達には、誰一人として、返済する金もなく、もはや、どん底においつめられた状態で、先は真っ暗であった。
ここに来て、私達は救いを求める術もなく、とうとう恥をしのんで沖縄の親戚にSOSを発した。「この手紙がついたら1銭でも多くの金送れ」という手紙を送った。会ったこともないハワイの叔母にも窮状を訴えた。
それが最後の手段であった。
ようやく沖縄、ハワイからお金が届いた。そのお金をプールにして松田家、山内家などすべての家族に配分して借金を支払うことにした。のたれ死同然の自分達の身の上に、救いの手をさしのべてくれた沖縄、そしてハワイの親戚の愛の尊さに、ただただ感謝の涙がこぼれ落ちるばかりであった。
ところが、無念にもその後がまた二の舞となる。全額を返済することができなかったので耕主は、「7月いっぱいに退耕せよ」と通告してきた。そこで、若者たちを移動先の「ファゼンダ」探しの「視察」に出したのだが、耕主は、「早く出て行け」と、草に火をつけるふりをして小屋も皆焼き払ってしまった。
幸にもその日に移動のためのトラックが来たので、難を救われたようなものだった。
移動先は、クィアバーの北方、カッペン植民地方面に200キロほど戻ったところにあるブラジル人所有のファゼンダで、原始林の伐採と牧場作りの仕事であった。トラックを出してもらい到着したものの、そこには住む小屋すらなかった。作物の植え付けもできないうちに雨期に入ってしまった。すがるところもなく、子供らも含めて7家族が一つのテントの中に身を寄せ合う状態が続いた。ここもまた安住の地ではなかった。
偶然にも、このファゼンダから4キロほど離れたところに、本部町出身で戦前移民二世の上間テツオさんの耕地があることを知った。私達は、男4~5人連れ立って、「助けてください。あんたの土地の片隅でもよいから、野菜でも作って女・子供を養っていくだけでもしたいので、なんとか助けて下さい」と、頼み込んだ。
上間氏の父親は、かつてカッペン植民地に関係したこともある人だったので、私達に理解を示してくれたが、土地を購入したばかりで、雇い入れる余裕がないということだった。そこを私達は拝み倒して受け入れてもらった。本当にワラをもつかむ思いだった。