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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(8)

ビラ・カロン沖縄県人会の舞台の背景幕「羽衣伝説」

ビラ・カロン沖縄県人会の舞台の背景幕「羽衣伝説」

 私は、このお金を上間耕地に残したままの7家族を呼び寄せるための資金にした。本当にありがたい尊い救いのお金であった。
 この7家族の仕事口を比嘉真繁さん、石川盛得さんらカンポ・グランデ沖縄県人会の幹部であった方々が、あっちこっちのファゼンダに当たって借地農の仕事を見つけて下さった。比嘉さん、石川さん達の恩愛の情、そのチムグクル、志情の深さは忘れられないし、生涯自分の心に生き続けることであろう。
 このような中、1968年移民60周年の年に私の叔父にあたる喜友名徳太郎さんが突然訪ねてこられた。私達の様子を見に来たという。そして「オイ、真勳野菜作りも仕事だが、遊ぶことも一つの仕事だよ。リカ、サンパウロんかい」といって、サンパウロで親戚の者たちがどんな仕事をやっているのか、見聞を広めさせるために連れて行ってくれた。
 それは、ハワイの奥原カマル叔母から徳太郎叔父にたいして、「あんたは、ミーックヮの真勳がブラジルに渡り、こんなにも哀れしていることもわかっていないのか、早く行って会ってくれ」、と手紙で切々と訴えられて、所在を確かめて飛んで来て下さったのであった。徳太郎叔父は、私達7家族がブラジルに来ていることを叔母の手紙で初めて知ったのであった。
 サンパウロ市は、自分たちが今まで見たこともないような大きな店が立ち並び、見たことも無い品物が棚に並べられており、驚きの連続であった。叔父は、「君たちも子供が多く居るし、ビラ・カロンにくれば着物作りの職業の人達がいっぱいいるから、そこで仕事をやり、子供らを学校に行けるようにやったらどうか」、と言って下さった。
 こうした徳太郎叔父の助言があって私達はカンポ・グランデ市からビラ・カロンへと移転したわけである。
 そこで、すぐにクストゥラ(縫製業)をやり始めた。ミシン1台の1カ月の借り賃が20コントだった。2台借りて子供らは仕事を始めた。沖縄を出てからすでに8年が過ぎていた。
 私は、子供達の仕事を見届けてからカンポ・グランデ市に戻った。自分はカンポ・グランデで絵描きをはじめていたし、石川さんの紹介もあって、日系団体連合会の会館常設用の大きな絵を頼まれていた。私は、これを15日かけて描きあげた。
 全身を集中して描いたので、描き終わったとたんにまたしても病に倒れてしまった。
 しかし、その絵が話題になり、自分の名が知れるようになった。その絵の代金があったかどうかは全く記憶にないが、自分としては皆さんに大変お世話になったし、感謝の思いでいっぱいだったし、多分請求などしていなかったであろう。カンポ・グランデの皆さん、比嘉真繁、石川盛得さん達には感謝の思いで胸がいっぱいだった。
 サンパウロ市での仕事は、子供達だけではうまくいっていなかった。私は、喜友名の叔父に誘われてビラ・カロンに移ることにした。子供らが移ってから2年後の1970年であった。最初は、バール業に携わった。