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岸本昂一(新潟県人会)
岸本昂一(新潟県人会)

終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第1回=正史から抹殺されたジャーナリスト

 67年前――1948年3月3日午前10時、サンパウロ市ピニェイロス区の寄宿舎学校「暁星学園」に社会政治警察(DOPS)の刑事が突然訪れ、著書『南米の戦野に孤立して』を出版したばかりの岸本昂一学園長(筆名=丘陽、1898―1977、新潟県)に出頭を命じ、同書を全て押収した。約1カ月間も投獄され、以後10年間は国外追放裁判と闘うことになる。力行会を通して渡伯したキリスト教徒、永住論者だった彼が「国家の脅威」として告発されたのは何故か。その記録は、今年4月に終了したサンパウロ州真相究明委員会による「日本移民迫害」を証明する一部にも収められた。終戦70周年を機に、表現の自由と戦中のトラウマを切り口として、ブラジル唯一の日本語書籍禁書事件の顛末を調べた。(一部敬称略、深沢正雪記者)

 岸本は1898年、新潟県新発田市出身、ハルビン日露協会露語科修了後、力行会を通して1922年に渡伯し、上塚植民地ゴンザーガ区ボラ植民地で日本語教師を始めた。その後出聖し、1932年に寄宿舎学校「暁星学園」を創立。36年から年2回、学校の会報『暁星学園会報』(18頁)を始めた。
 最初は父兄向けの会報だったが、徐々に内容を一般向けに変え、40年2月から隔月刊の青年雑誌『曠野』(32頁、活字)に発展させ、18号を数えて1200人の読者を擁するまでになっていた。
 ところが欧州大戦の勃発により、1941年年初に外国書籍禁止令が出され、邦字紙と同じ8月を持って停刊させられた。
 戦後は50年8月から隔月刊誌『曠野の星』として再刊した。5千人の購読者を誇った同誌は、3年以上続く雑誌が稀だった時代に23年間(戦前の5年間を含めて)も続いた。コロニア雑誌界を代表する一誌といえる。
 しかもDOPSから発禁処分にされた『南米の戦野に孤立して』を含め、計8冊もの著書を刊行した。母県では1998年、岸本の死後、21年も経ってから人物評伝『ブラジルコロニアの先駆者 岸本昂一』(松田時次、新潟県海外移住家族会)が刊行された。
 さらに2002年には日本で『南米の戦野に孤立して』が〃隠された名著〃として東風社から復刻された。死後30年が経ってから母国で評価を見直されるような著書を書いたコロニア人が他にいるだろうか。
 ところが『移民70年史』『80年史』を紐解いても「岸本昂一」『曠野の星』などの言葉はほぼ出ていない。5千人の購読者を誇った同誌に関する記述はほぼゼロ――。コロニア正史から抹殺されたジャーナリストだった。(つづく)