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戦後70年と言うけれど=イタペチニンガ 佐瀬妙子

 1945年7月も終わりに近い朝、私は母と裏庭にコンロを出して非常食用の大豆か米を炒っていた。その時、裏の木戸が開いて誰かが入って来た。振り返ると兄だった。兄は中学4年の時、海軍甲種予科練習生として入隊。筆まめな人で、各地に転勤になるたび葉書をくれた。
 つい1週間前、中国の青島航空隊から元気な便りが届いたばかりの兄が突然現われ、どうした事かと聞けば「横須賀に行くことになった」と一言。
 何はともあれ久し振りに家族揃って食卓を囲む事が出来た。すでにその頃は配給制度であり、乏しい食材の中から母は食卓を整えてくれた。
 翌朝、兄は言葉少なく玄関先に立ち、ニッコリと挙手の礼をして家を出ていった。軍隊での厳しい訓練に鍛えられ、すっかり人相まで変わっていた。
 兄が去った後、以前兄が使っていた本箱を開けたところ、棚の上に一通の封書を見つけた。母を囲んで封書を開けて見ると、中に毛髪と爪と一緒に遺書が入っていた。兄が突然帰って来た理由が分かった―。
 その手紙には『自分は此度特攻隊員として出撃する事になった』、そして両親や弟妹たちへの感謝の言葉が書かれていた。兄は一言も言わず顔にも出さなかったが、最後の別れに立ち寄ったのだ。
「兄ちゃんは黙って行ってしまった」
静かな時間が流れた。
 運命は分からない。兄が遺書を残して別れてから2週間余りして敗戦。神風は吹かなかった。後数日戦争が続いていたら、多分海の藻屑となっていたに違いない。
 私は戦後、戦没学徒の手記『きけわだつみの声』を読み、学業半ばにして特攻隊として出撃した若者たちの純粋な心の叫びに胸を打たれた。
 今年は戦後70年という。テレビでは連日のように、70年前の日本の姿を放送している。私も少女時代、戦争の渦の中に巻き込まれ唯ひたすら勤労奉仕に汗を流していた。学校の校庭は芋畑に変わり果て、教室での授業も満足に出来なかった。
 私は昭和25年、知人の紹介で東京へ出た。その頃ちょうど朝鮮戦争が勃発しており、銀座辺りにはアメリカ兵が溢れていた。上野公園の西郷さんの銅像下の石段には、戦災孤児たちがたむろしていた時代―あの光景が目に浮かんでくる。
 電車に乗れば、白衣の傷痍軍人が乗客から報謝を受けていた。ついこの間まで帝国軍人としての誇りを持ち、国のために戦っていた軍人がこの様な有様であった。
 特攻隊生き残りの兄も米寿を迎え、訪日の際には一緒に食事をしながら昔話に時間を忘れて語り合った。
 近頃物忘れが多くなったが、不思議と70年前の日常生活振りなどの記憶は鮮明に浮かんで、『命あっての物種』でこの世に忘れ物がないようにと子供や孫たちに語り続けたいと思っている。