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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(44)

カフェ・イグアスーの工場

カフェ・イグアスーの工場

 こういう話もあった。正月、斉の配下たちが、農場のセーデ(本部)で新年会を開いていた。そこにカマラーダが乗り込んで着て、仲間に入れろと暴れ出した。それを小山田という男が、鞭で叩きのめした。カマラーダは逃げたが、すぐ仲間を大勢連れてきて、セーデを取り囲んだ。その数が忽ち膨れ上がり危機が迫った。そこへ斉がピストルをパンパン鳴らしながら、馬で駆けつけて来て追い払った──。

 平然と役人買収

 牧場造成は4年で仕上げた。斉は請負業者として売り出し、その後二カ所、引き受けた。自身も牧場主となった。
 彼は少年期からポルトガル語を必死に学び、会話は達者であった。ブラジル人の友人が多く、ミヤモチーニョと愛称されていた。チーニョは背が低いという意味である。
 労働法についても勉強しており、弁護士たちも一目置いていたという。
 一方で、役人を買収するという様なことも平然とやった。サンパウロ州政府の運輸局長を、何かのことで利用しようとした時、葉巻を一箱送った。中には紙幣が詰まっていた。

もう10年…

 1940年、斉はセント・ビンチ・シンコに移った。歳は40を少し越していた。2千アルケーレスの土地を買い、カフェーの栽培を始めた。兄の浩がここに来たのは翌年だから、先導したことになる。
 植えたカフェーは1950年代に入った頃は、100万本近くになっていた。兄と共に北パラナでは最大級の規模であった。
 1952年、日本人カフェー生産者や南銀と組んで、プロヅトーレス倉庫会社を設立、初代社長になった。ところが、その矢先、交通事故で命を落としてしまった。
 セメント会社の設立も計画中だった。よくアデマール・バーロス(サンパウロ州知事)と電話で相談していたという。
 まだ52歳だった。もう10年生かしておきたかった──と、彼を知る人々は惜しんだ。
 斉の事業は遺族により売却されたという。

 末弟・邦弘

 年齢が26歳も離れているので、長兄の浩が自分の息子の様に思っていたという邦弘は、1916(大5)年の正月元旦に生まれた。
 17歳の時、ブラジルから長兄の浩が一時、大分へ帰省した。その折、頼み込んで、自分もブラジルに渡った。兄たちが、まだプロミッソンに居た頃である。着くと、浩から「農場でカマラーダと一緒に働け」と命じられた。浩はこうも付け加えた。
 「お前も、ほかの弟たちと同様、つとまりゃしないだろうが……」
 邦弘は朝5時に起きて、馬の世話や草刈りをした。収穫時はサッコを担いで運んだ。カフェーの実を詰めた袋である。
 雨が降ると、夜中でも飛び起きて、野外に積んであるサッコを倉庫へ担ぎ込んだ。
 やがて独立、自分の農場を持ったが、兄たちがセント・ビンチ・シンコへ移ったので、それに倣った。1945年のことで、30歳近くになっていた。
 やがて、浩は日本へ去り、事業は邦弘が引き継いだ。最盛期、2500アルケーレスの土地、カフェー135万本、同精選工場、牛7千頭、製材所、煉瓦工場を所有していた。北パラナでは、代表的な事業家の一人といわれた。