1960年代後半、筆者が邦字紙の新米記者をしていた頃、邦弘はサンパウロ市内にも事務所を置き、様々な事業に関わり、幾つかの団体の役員を務めていた。
人から聞いたことだが、自家用の飛行機で飛び回っており「サンパウロがフェシャードで、降りられなかった」などという会話を日常的にしていた。霧がかかって着陸できなかった、という意味である。「コロニア一のお金持ち」とも言われていた。
ところが、この宮本邦弘が1970年代以降、燃え盛っていた炎が、その勢いを衰えさせ煙になり、その煙が細って行く様に、消えて行ったのである。そうなった原因は幾つかあった。
1960年代末、彼はカフェー・ソルーベル・イグアスー社をサンパウロ市に設立、1971年、工場をコルネーリオ・プロコッピオに建設した。カフェーは、戦後の大好況の反動で、生産過剰となり、市況の低迷が長く続いた。霜害などで回復することもあったが、不安定であった。
その不安定さに左右されぬ、付加価値の高いインスタント・コーヒーにして販売しようとしたのである。それと、農業分野で成功した事業家が、商業、加工業その他へ進出しようとするのは──本稿で何度も記した様に──自然の成行きであった。
しかし、このプロジェクト、工場のイナウグラソン当日から躓いた。輸入して据えつけた機械が、故障で動かなかったのである。その日、筆者はサンパウロから取材に行っていた。が、式典が、いつになっても始まらない。会社の役員が居る部屋に行ってみると、社長の邦弘ほか皆、しぶい顔つきで黙っていた。
機械は輸入品で、候補には二つのメーカー製品があった。輸入を代行した丸紅ブラジルは、高い方を推薦したが、邦弘たちは安い方を買った。それが間違いだったという。
邦弘は、これで巨額の損失を出した。窮して丸紅に資本参加を要請、丸紅は応じた。しかる後、改めて機械を輸入した。が、この種の事業は装置産業であり、以後も投資に莫大な金がかかった。
ために増資を繰り返した。これに邦弘側はついて行けなくなった。いかに大きくやっていたとはいえ、所詮は個人の事業家であり、日本の総合商社には、太刀打ちできなかったのである。
会社の経営権も社長の椅子も、丸紅側に移った。その過程では、確執もあった様である。筆者は当時、サンパウロ市内の本社を訪れ、取材をしたことがある。同社の新しい社長と邦弘が応対してくれた。何を聞いたのか、思い出せないが、話の最中、邦弘が突如、顔色を変え、手にした書類をパッと新社長の前に投げ出し、不快感を表す音声を発した。
邦弘が勢いを衰えさせたのは(前出の市長になった人とは別の)息子の博打好きも原因した。伯父の斉を見習ったわけでもあるまいが、驚くほどの賭け方で、邦弘が知った時には、借金が信じ難い程の額になっていた。その清算のため財産が半分に減った、と邦弘が当人に怒鳴りつけた──という話もある。この博打に関する件は、北パラナを旅すると、誰もが知っているから事実であろう。
ほかに、邦弘自身が土地の売買で、外国から来た詐欺師に騙されるという失敗もあった。これは新聞記事にもなった。
筆者は、晩年の邦弘を時々見かけたが、以前は全身から発していた光の様なモノが消え、ただの人になって行く……その変化に痛ましさすら感じたものである。やがて訃報が新聞で流れた。