10月3日は、ブラジルの音楽史上、最初期の人気歌手、オルランド・シウヴァの生誕100周年にあたる。
オルランド・シウヴァといっても、今やブラジル国内においても研究家筋でもないとなじみのない名前だろう。事実、彼の特集記事を2日付で掲載したフォーリャ紙でさえ、「数年前にジウマ政権で辞任に追い込まれたスポーツ大臣とは別の人」という注釈をつけているほどだ。
だが、オルランドは1930年代、「ラジオ王」との異名を取るほど圧倒的な人気を誇った歌手で、それは1940年代前半まで続いた。同時代、アメリカでフランク・シナトラが同じような立場にいたが、実際の話、オルランドは「ブラジルのシナトラ」とも呼ばれていた。
オルランドは1915年10月3日、リオ北部で生まれた。彼は17歳の時、路面電車の車両に足を突っ込んでしまい、足の指を4本切断する重傷を負った。痛みを抑えるため、この時に初めて服用したモルヒネが、後に彼の人生を左右することとなってしまう。
1933年、オルランドはバスの料金収集係(コブラドール)として働きはじめたが、仕事中に歌っていたところ、仲間や乗客の間でその歌声の美しさが注目され、評判が評判を呼んだため、翌34年にはラジオ局で歌い始めるようになった。
そして1937年、オルランドは、ショーロ(ブラジル版のジャズ)の王様、ピシンギーニャの作った「カリニョーゾ」「ローザ」などを大ヒットさせ、ブームを呼んだ。1938年にはサンパウロでツアーを行って「カントール・ダス・ムウチドンエス(大衆のための歌手)」との異名をつけられ、ますます人気が高まっていった。
しかし1943年、折からのモルヒネ中毒(一説ではコカイン)にアルコール中毒も加わり、人気女優だった妻のゼゼ・フォンセカとも離婚。自慢の声も麻薬やアルコールで潰してしまい、歌手としての人気が落ちると、オルランドは過去の人となってしまった。以後は完全にカムバックすることはなく、1978年、62歳で脳血管障害のために死去している。
だが、全盛期が去っても、ボサノバの神様ことジョアン・ジルベルトをはじめ、ロベルト・カルロスやカエターノ・ヴェローゾが自身に影響を与えた歌手としてオルランドの名前をあげており、彼の名前は一部の音楽ファンのあいだでは浸透している。日本でも、ジョアン・ジルベルトのファンのあいだでは知られた名前だ。
今回の生誕100周年を記念して、故郷リオでは10月に三つの記念コンサートが行われる。(2日付フォーリャ紙より)