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2005年11月末に行われた暁星学園の同窓会にたくさん集まった卒業生
2005年11月末に行われた暁星学園の同窓会にたくさん集まった卒業生

終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第5回=認識派新聞に伝わる〃伝統〃

 岸本逮捕に関して伯字紙よりも早く報道にしながら、距離を置くニュアンスのパウリスタ新聞―。パ紙の創立は1947年1月であり、岸本逮捕はその翌年3月だ。
 良く調べてみると、そもそも岸本逮捕の発端となったのがパ紙48年2月26日付けポ語頁にあるS・ミツタニ署名の「Um livro-salado japones que merece reparo」(混乱した、要注意の日本語の本)という書評だった。
 「いま読み終えたばかり」と前書きし、「著者の意図は日本人社会の人種差別感情を示唆するだけでなく、時代錯誤な認識や馬鹿げた考え方をもってブラジル的なものに対する敵意を感じさせる」と断定している。
 『蕃地の上に日輪めぐる』(岸本丘陽、曠野社、58年、493頁、以下『蕃地』)によれば、この書評が発端となってDOPS国外追放課の手入れが行われた。
 当時パ紙は週3回発行だった。その時に記者をしていた水野昌之さんに確認すると、当時のポ語版は、山城ジョゼと翁長英雄が二人で週に1回ずつ出社して紙面を作っていたという。「二人共稀に見る紳士だった」との印象を持っている。46年4月からの勝ち負け報道で一般社会の注目を浴びたジャーナリスト2人組だ。
 編集部に毎日出社していた水野さんだが「ミツタニという人物は知らない」といい、「あまり出入りのない人物、もしくは翁長らのペンネームかも」と示唆した。パ紙において対岸本の急先鋒だったのは、二世エリートなのかもしれない。
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 岸本が経営していた暁星学園は、彼が出聖以前に日本語教師をしていたプロミッソンなどノロエステ地方出身子弟を引き受ける寄宿舎でもあった。その勤労部は、金銭的に恵まれない子弟に洗濯屋で仕事をさせ、その賃金で夜学に通わす苦学生制度だった。岸本が渡伯する際に入った力行会も、東京の本部宿舎で共同生活し、牛乳配達しながら苦学をする制度をとっており、彼らしい発想だ。
 起床朝5時半、体操、掃除、賛美歌斉唱から始まり、とても厳しい時間割をこなした。その卒業生からは連邦議員、市長、市議ら政治家から弁護士、医師、大学教授、小中学校教師なども誕生した。
 2005年12月8日付け本紙《その時「真珠湾攻撃」を知らされた》との見出しで暁星学園の歴史を振り返る記事を出したとき、何人もの同校OBから「なぜ書いてくれたの」と半分戸惑い、半分喜ぶような不思議な反応があった。
 逆にその時、パ紙元編集長からは「昔は記事にしなかった勝ち組を最近は記事にするようになったな。いいぞ、やれやれ。俺らの時代にはできなかった」と言われた。
 記者本人には単なる「寄宿舎学校OB会」との認識しかなく、「勝ち負け」関係の取材をしている意識はなかったが、〃歴史的地雷〃を踏んだ感触があった。
 「勝ち組系人物」の記事を避けるパ紙の伝統は、無意識のうちにニッケイ新聞になっても続いていた。(つづく、深沢正雪記者)