地元の牧場主たちは、牛を自由に放しておけば、一日中、足首を湿地に踏み込んでいると、足の爪際から病気に犯されるので、この土地は放ってあるのだそうだが、朝夕一時間ずつの放牧なら、何の支障もないはずである。また、家畜にとっては、朝夕のこの時間が満腹させるためには必要であることは、美幌高校の畜産科を経てきた者にとっては、常識であった。
そのためには牛を引き連れ、監視しながら早朝に飽食させねばならなかった。二人は思い切ってパトロンに切り出してみた。「乳牛を飼ってみたい。俺たちにあの土地を使わせてくれ」というのだ。
ここで双方の条件が折り合った。
パトロン側は、「よかろう」その代わりに四年間の俺との契約後の独立資金は援助しない。毎日二人のうちどちらかは一日中俺のところで就職すること、他の一人も暇なときはできるだけ手伝うこと、食事代はいままで通りで心配はいらない。青年側は土地を貸してもらうと共に、土地内に牛舎、納屋を設備させてもらって、もし酪農をやめるときは、設備の解体や牛の売買は自由にさせてもらうことで意見が一致した。
大貫はさっそく日本の父と兄に独立資金の意味の援助金を相談した。すぐに送金が届いた。日頃の計画が実行に移された。先ずはじめに、オランデースの乳牛一頭からスタートした。草はふんだんにあった。それから四年の歳月が流れるうちに、産れたり買い足したりして、母牛七頭、子牛五頭、種牛一頭、計十三頭にふえていた。この酪農経営も順調に伸びて来たといってよいだろう。
しかしながら人の行く手というものはどこでどう狂うか分からない。
種子栽培に順調だった石川家に不幸が訪れたのである。この家の主婦シゲノが風呂場でたおれた。卒中である。一週間いびきをかいてねむっていただけで他界した。人間誰しも弱いもの、あれだけ仕事に情熱を打ち込んでいた石川も、がっくりと力を落とした。二人の娘はポルト・アレグレで就職しているので帰るとはいわない。シゲノは働き者だった。故に家庭内に女気をなくしたみじめな石川の心境は、大貫たちには痛いほど分かるのだ。
「お前たちにこの土地を任せるから、肩代わりしないか、俺はサンタ・イザベルの息子のところへ行くことにした」石川は或る日、こんなことをいい出した。「えっ・・・ほんとうですか・・・どうする大盾」
完全独立の面で考えると、好機到来であったかもしれないが、パトロンの不幸をこちらのチャンスとして受取って良いものだろうか。二人の胸には、何か申しわけないような釈然としない靄のようなものが残る。
だが人間の一寸先は闇である。どのようなことが起きるか分からない。それは、ほんのちょっとした若者の思慮の浅さが大きな転機になろうとは、この二人は気づかなかった。
乳牛も七頭ともなれば、かなりの乳が出る。毎日の搾乳量は、二十リットル入りの大缶に四本は出る。毎日しぼった乳を畜舎の横の道具小屋に置き、朝八時までに国道脇のボテコまで運んでおけば、ペラルゴンの集乳車が受取りに来てくれることになっていた。