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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=(47)

アサイの青い空に浮かぶ白い雲

アサイの青い空に浮かぶ白い雲

 五章 アサイ


三本の金塊

 その昔、北パラナに「トゥレス・バーラス」という名の、かなり広い私有地があった。といっても、1930年代の初めまでは、ここも、やはり原始林であったが……。
 2015年現在、その大半が「ムニシピオ・アサイ」となっている。アサイ市と訳されるが、人口は一万数千というから、日本語の感覚では、町に近い。丘の上に市街地があり、そこを下ると、周囲に穀物畑が広がっている。北東へ直線距離で30キロほどの所に、前章で紹介したコルネーリオ・プロコッピオ市(旧称セント・ビンチ・シンコ)の中心街がある。
 トゥレス・バーラスとは、直訳すれば「三本の棒状の塊」である。それが、どうして地名になったのか、筆者は長い間、知らなかった。が、2013年、同地を訪れた時、ここに八十年住んでいるという御老人が、その謂れを教えてくれた。それによると──。
 アサイの北隣に、ジャタイジーニョという、やはり小さなムニシピオがある。19世紀の後半、当時はジャタイという地名であったが、時の皇帝ドン・ペドロ二世が、帝都リオデジャネイロから来て、しばらく滞在したことがある。
 本稿一章で記したことだが、ジャタイはコロニア・ミリタール=軍事用の植民地=で、これ以前に、同二世の命で造られた。そこから20キロほど南、現在のアサイ市ペローバ区にも、一寸した砦が築かれた。今も、その跡がある。建物もあったが、焼失した由。
 さて、ドン・ペドロ二世の滞在中、側近く仕えていたカトリックの僧が、三本の棒状の金塊を盗んで、南の方へ逃げた。一本が2、3キロあったという。追っ手がかかり、僧は殺された。が、金塊は持っていなかった。そこで「何処かに隠したのだろう」ということになった。以後、その金塊探しをする者が多くいたが、見つからなかった。
 そういう伝承があったため、後年、この辺り一帯の土地を買った人が、ブラジル人らしくユーモラスに「トゥレス・バーラス」と名付けた──というのである。


ある国策移住地の83年

 それから相当の歳月が経って、1928年、武石某という日本人が、このトゥレス・バーラスを訪れた。といっても、金塊探しが目的だったわけではない。そんなケチなことではなく、壮大な、日本の国策をここで展開するためであった。
 すでに本稿一、二章で少しずつ触れたことであるが、日本政府は1924年から対ブラジル移民奨励を国策化した。その推進のため、1927年、各道府県に海外移住組合を設立、中核機関として、連合会を東京に設置した。
 連合会は、政府資金でブラジルに大型の移住地を造り、そこに全国から移民を直接送り込むという計画を策定した。移住地内の土地を好条件で分譲、初めから独立農として入植させ、それまでの配耕先での労務者生活の苦痛を省いてやろう──としたのである。
 連合会は発足早々、専務理事の梅谷光貞と職員の武石をブラジルに派遣した。移住地用の土地を確保のためである。彼らは、在サンパウロ日本総領事館を足場に──この種の仕事に経験のある──在留邦人の協力を得、市場に売りに出されている土地を物色した。その中で連合会側の条件に合う処を現地調査、サンパウロ州内に二カ所入手した。バストスとチエテである。