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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第7回=温厚な教育者と危険人物の狭間

「萩乃さんは苦労された」と語る青野カチエさん

「萩乃さんは苦労された」と語る青野カチエさん

 日本移民で唯一「国家の危険人物」として禁書にされた岸本の写真が、今も高々と掲げられている公的な場所がある。サンパウロ市の新潟県人会館入り口だ。岸本は1969年2月から71年1月まで第3代会長を務めた。創立会員の原沢和夫さん(88、新潟県、元援協会長)に岸本の印象を尋ねると「温厚な方です」と即答し、「でも苦労されたようですね」と付け加えた。
 「ようですね、ってことはあまり具体的な話は聞いていないのですか?」と畳みかけると、「何かの裁判でえらい苦労されたとか。具体的な話は知らないです。県人会の中でも話題になることはなかった。というか、その件に触れるのがタブーのような雰囲気がありました。みんなその件について多少なりとも知っているが、あえて触れない、そんな感じでした」との印象を語った。
 「温厚な教育者」がなぜ「国家の危険人物」として国外追放裁判を起こされたのか―謎は深まるばかりだ。
 岸本昂一の印象を、同県人会の南雲良治会長に聞くと、やはり「すごく温厚な教育者という感じの人だった。人格者だ」と証言した。
 同県人会員で岸本の親戚にあたる青野(せいの)カチエさん(新潟県新発田市、当時84歳)=2013年3月19日取材=は、「うちは東塚目、岸本家は隣町の西塚目で、地元では〃岸本さま〃と呼ばれる大きな農家でした。最初一人でロシアへ行ったので、お母さんがウソの電報を打って呼び戻した。岸本さんは長男だったので両親は外へ出したくない。ブラジルへの旅費も、親が一文も出さないので、奥さんの嫁入り道具を全部売って作ったぐらい」という。
 国外追放裁判のことを聞くと、「裁判の話はあまり出ませんでした。カデイア(監獄)に入った話もあまりしていなかった。奥さんの萩乃(はぎの)さんは、とにかくしっかりした人、面倒見がいい人で、私たちが貧乏していた時も、いろいろ心配してくれた。岸本さんは雑誌を作っている関係で、家には滅多にいなかった。年の半分近くは取材にいっていた。だから奥さんは苦労された」と思い出す。
 岸本が刊行していた雑誌『曠野の星』にも度々登場したスザノ福博村の大浦文雄さんにも尋ねたが、「岸本さんは僕の家にもよく来られましたよ。車じゃなくて、いつも歩いてくるんですよ。一通り取材が終わると、『じゃあ、次に行きますので』とさっそうと移住地の泥道を歩いていくんだ。あのバイタリティには感銘を受けた。文字通り精力的に自分の足で歩いた人だった」と懐かしそうに振り返った。
 「裁判のことはしらないが」と前置きし、勝ち組的なイメージだったことを付け加えた。「彼の文章はちょっと固いんだな。教育者的だった」。(つづく、深沢正雪記者)