西村は、仁王に似た体格の持ち主で、破(われ)鐘の様な声で人を使った。一方で可愛がった。それについては、彼の下で働いていた勝田卯太郎の話が、文字になって残っている。それによると──。
最初、西村が勝田たちを連れ、現地入りした折のことである。この時は鉄道がジャタイまで通じていたので、汽車でそこまで行き、迎えに来ていた斉藤と落ち合った。翌朝、御者つきの荷馬車を雇って、食料や野営道具を積み込んで、移住地向け出発した。斉藤は馬上、他は徒歩であった。
4、5キロ行くと道は狭くなった。川があり、橋は穴だらけだった。御者は馬車から荷物を放り出して、さっさと帰ってしまった。仕方がないから皆で担いで、フラフラしながら歩いた。夜が来て野宿をした。火を炊き、炊き続けた。獣避けである。不寝番は西村市助がした。西村はいつもこうであった。
勝田は「良い親分だった」と述懐している(不寝番は、無論、後で誰かが交代したのであろうが……)。
西村は、斉藤から請け負った山伐りを済ました後も、数年、この移住地に留まった。ここには山伐りの仕事は幾らでもあった。
入植者を募ったが…
前記の最初の斧が入って間もなく、移住地の測量が終わった。そこで、まず二カ所(ペローバ区とその隣に設定した中央区)を、農場用にロッテアメントした。入植者一家族用の土地を一ロッテ=区画=として仕切った。一ロッテは10アルケーレスあった。
同時期、ブラ拓の仮事務所には、サンパウロの本部から、新しい職員が次々やってきた。車輌も着いた。運転手は池田源吾といって、この章では、今後しばしば登場する。
さて、一応の準備が整ったため、ブラ拓は入植者を募集した。この時、従来からの「日本から直接、移民を導入する」という方法を中止、既存の移民を対象にした……というのには、次の様な事情があった。
数年前に開設したバストス、チエテ両移住地で、日本から移民を直接導入した処、彼らがブラ拓に対し、権利のみを主張、義務を怠る──という悶着が起きた。ために両移住地の運営は、捗捗しくなかった。配耕地での労務者生活の苦痛を省いて、初めから自営農にさせてやろう──という親心が裏目に出たのだ。現実というものは、兎角こういう風に、意外な方向へ逸れて行くものである。
そういうことで、トゥレス・バーラスでは、苦労を経験している既存の移民を入れることにしたのである。
募集は、サンパウロ市で発行されている邦字新聞などを通じて広く行った。これに応じて最初に下見にきたのが──本稿二章で紹介したバンデイランテスの──野村農場でコロノとして働いていた5人であった。農場から移住地まで3日かけて歩いてきた。
移住地では2、3日、ペローバ区の仮宿舎に泊まり、同区と中央区のロッテを物色、それぞれ買うことを決めて帰途についた。その折、ロッテの山伐りをブラ拓の仮事務所に頼んだ。仮事務所は、それを西村組に回した。ロッテの買い手は、山伐りが済んだ頃、家族や荷物と一緒に入植、山焼きをし、その後を整地、作物をつくる──そういう段取りになっていた。
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