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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第15回=戦中に拷問された戦前指導者

野村忠三郎

野村忠三郎

 戦争中のことに焦点を絞った貴重な文献『戦時下の日本移民の受難』(安良田済編著、11年)には鳥取県人会会長を30年も務めた徳尾恒壽の日記が転載されている。開戦時に東山銀行の経理部主任をしていた。
《▽1942年2月26日=聞けば多くの邦人が何かと疑いをかけられて、警察に引っ張られ、歩行も出来なくなるほど叩かれた者もあるという。憤りも同情もするけれども、大使館、領事館が閉鎖されている現在、ただ歯をくいしばって好くなる日を待つよりほかない。(47頁)
 ▽同9月9日=コンデ街、コンセレイロ街、タバチンゲーラ街在住の日本人家族は全部立ち退き命令を受けて混乱している。約四〇〇家族(一家族五人の単位として二千人)には大恐怖だ。(中略)三十年以上平和に暮らしてきた、日本移民史とも深い関係のある日本人街、忽然と消えて行くとは誰が予想しえたろうか。(52頁)
 ▽44年5月24日=野村氏が引っ張られ、だいぶん厳重な取り調べを受けているらしい。氏に警察に疑われるような行為があったとは思われない。官憲も在伯同胞間にスパイなどいないことは解っているはずだ。(70頁)》。この「野村氏」は野村忠三郎のことだろう。
 終戦直後、香山六郎は時局認識運動に加わるよう、野村忠三郎(戦前の日伯新聞編集長、日本語教育の中心機関だった「文教普及会」の幹事長)を説得に行った。
 《二度目の訪問で忠さん(野村忠三郎)は私共の話にこう答えた。「実は僕は乗り気薄なんです。というのは先日まで僕はレデンソン(刑務所)に引っ張られて閉じ込められ、虐待されていたんです。又々認識運動などして警察に一寸来いと水ぜめに合わされるのはご免なんです」。我々のコロニアの文化普及会主事として州当局からあらぬ嫌疑をかけられた数週間の苦悩を私共に語るのだった》(『香山六郎』423頁)とある。
 つまり戦中、野村忠三郎は日本語教育に邁進したせいで、警察から数週間に渡って投獄されて警察で〃水責め〃などの虐待にあっていた。
 戦後、認識派のボスになった宮腰千葉太は戦前、『日本精神講話』(1938年)を刊行している。その目次を見ると「日本民族の由来」「天地開闢」「伊邪那岐と伊邪那美二神の不和」「天照大神、月読尊及び須佐之男命の分国」など、まさに戦後の勝ち組そのもの講演を二世相手にしていたことが分かる。
 つまり、戦中までのコロニアは上から下まで大半が同じ様な「日本戦勝」を信じるものばかり。それを勝ち負けに分けるのに、戦中の体験が大きな影響を与えた。
 まず戦争中に、戦前の日系社会リーダーがブラジル社会からいじめられ、ブラジル官憲からの迫害の再来を極度に恐れるようになっていた。戦中のトラウマゆえに、戦後に勝ち組の動きに過剰反応して弾圧したのか。負け組心理の奥には、そんな心の傷があったのではないか。(つづく、深沢正雪記者)