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父の遺志を遂行した金城郁太郎の移民物語=上原武夫=(4)

オリンピアの大農場主、金城正仁家の人々

オリンピアの大農場主、金城正仁家の人々

 それから20年の歳月が流れた。沖縄庶民の暮らしは何も変らぬ昔同様、それこそドン底の暮らしであった。
 そこでまた、亀の弟金城正仁が、これまた同じ動機で18歳の長女を先頭に1歳の乳飲み子までの8人の子供を引き連れてブラジルに移住、モジアナ線地方に入植した。
 1937年のことであった。10人家族で過酷なコーヒー栽培に従事、成長する子供達と大家族の団結で困難をのり越え、オリンピア地方に大きな農地を購入し開拓を続け、今では高い知名度をもつ大農場経営者となるに至っている。

叔父金城正仁家族の鞍掛け馬に乗り再出発

 さて、妻の賛同を得てブラジル移住を決断した郁太郎家族、早速ブラジルの叔父正仁家族に呼び寄せの願いの手紙を送った。正仁叔父も家族が多いことは事業拡張にもつながる、と喜んだ。
 1954年村の先輩方や親戚・知人・友人らに送られ沖縄をあとにした。末の子が誕生を迎えた頃であった。3月、戦後のウルクンチュ移民4番目にサントスの土を踏んだ。
 叔父正仁家族の支援を受けながら慣れない移民生活が始まった。戦後初期の移民とあって日本と沖縄の変わった話を聞こうと遠方から見知らぬお客も訪ねてきたという。勝ち負け抗争の話題もまだ消えない奥地農民、簡単に語り合うことすらできない時代であった。
 正仁家族が経営する農場はサンパウロ市から約500キロ地点の奥地だが想像していた山奥とは裏腹に、周辺は果てしなく広がる大牧場やカフェー農場、そして所々に原始林、そのはるか奥に大きな河が霞んで見える。とにかくびっくりするほど開かれた大農場地帯であった。
 正仁叔父の家から約300メートルに掘っ立て住宅や井戸までも準備されていた。古瓦の屋根、ヤシの木を半分に割って組みあわせた壁、その繋ぎ目は粘土でふさがれている。土面の室内に新しいワラ製の寝具が置かれ、開けっぱなしの窓から風が吹き込み涼しい。従兄弟達の肝いりの受け入れ準備に郁太郎は、唯々感謝の思いで頭が下がった。
 家具や荷物の整理が整うと見習い農業が始まった。農具や通学用の2頭、農業用2頭の馬を購入、上の子二人は約5キロほど離れた農民集落の小さな学校に入学させた。もちろん1年生からの始まりである。年齢まちまちの田舎の学校、7~8歳の同級生も一緒だが、ブラジル人は背が大きいので年の差を感じなかったという、12歳の隆志君。自宅から本道に出るまでは2つの牧場内を横切らなければならない。馬の乗り降りも気になるが、毎日の決まりごとに慣れるのも早い。
 始めの頃はクラス仲間達から、「ジャポネース・ガランチード」、と訳の分からない言葉でからかわれたが、悪ふざけのない田舎の子供達、すぐ友達になり日々言葉も上達、家族の通訳にもなったと父郁太郎も目を細める。
 農機具を使用したことも経験もない、働き手一人の現状をふまえ、従弟達は日雇い人夫を雇い、自分たちが経営する農地から約4アルケール(約10ヘクタール)の農地を5部作で譲ってやった。