ホーム | 文芸 | 連載小説 | 父の遺志を遂行した金城郁太郎の移民物語=上原武夫 | 父の遺志を遂行した金城郁太郎の移民物語=上原武夫=(6)

父の遺志を遂行した金城郁太郎の移民物語=上原武夫=(6)

渡伯4年目からようやく稲の大豊作

渡伯4年目からようやく稲の大豊作

 とうとう稲の穂先が枯れ始め、泣くに泣けない見殺しに胸が裂ける思いで、オテントさんを恨む。雨があれば仕事もあるがここしばらく雨を待つしかない。膨れ切れた手豆も石のように堅くなっている。慰めをかける母ちゃんに「その分子供たちが成長したから悔いはないよ」、と慰めあう夫婦である。とうとうその年は不作に終わる。夫婦共々年中働き収穫無しの食い潰しにため息をつく移民夫婦に目出度しや、女の子が誕生した。子供は此までとの思いから末子と命名した。
 その頃(1956年9月)、郁太郎の紹介で僕も金城正仁ご家族の呼び寄せでブラジル入りした。畑隣りの郁太郎家に偶々お邪魔し、夕食まで呼ばれることがあった。雨がしとしと降る日、早めに切り上げ郁太郎家にお邪魔した。彼の表情は明るく微笑んでいる。君も一杯やれと勧められ、飲みなれない酒ぐぁ、チビリチビリ飲むと瞼も下がり満々の笑顔で話しも弾む。昔の話や兵役時代での事など、村のアシビナー(遊び広場)の沖縄角力で自分より大きい相手を幾人かを転がした自慢話が次から次へとでて楽しそう。おばさんは、酒の肴にと魚のから揚げを大皿に盛りご馳走した。豚油の焦げ揚げでニンニクの香り、骨までぼりぼりで美味しい。
 翌朝のこと、洗面所の井戸端に幅40センチほどの大蛇の皮が吊るされているのにびっくり仰天、この大蛇だれが殺したの、と聞いたらお隣のブラジル人が獲ったという。それを丸斬りにして親戚の方々に30センチずつ分配したという。僕は昨晩の「魚の唐揚げ」に気づいた。料理もやりようで美味しくなるもんだ、と初めて食べたスクリュー(大蛇)の肉に改めて感心した。
 作物も日々成長、米、綿、トウモロコシ全てが大当たりの大豊作、渡伯4年目のことであった。その大豊作で正仁家もさらに大農場を購入するほどの大当たり、心浮き浮き笑いの止まらない年となった。その年のオテント様に感謝した。

家族慰安のウズラ狩り

 米、トウモロコシの刈り入れの跡は一面の小麦色に変わり、ウズラの集団が御目見えする。ウズラは2―30羽で群れを組み到来するが、側まで近寄っても頭だけ隠して動こうとはしない。踏まれそうになると一度にぱっと飛び上がり、びっくりさせられることもたまたまだ。
 さて、収穫も終わると、米、綿、トウモロコシなどの乾燥作業になる。昼間の太陽が強いうちに袋詰め、その作業が終ると次期植え付けまでの間作として、西瓜やカボチャなどがあるが、忙しいと言う程ではない。日曜日になると子供たちを引き連れ鶉狩りだ。
 子供達が木の枝をあっちこっちに投げると一度にぱっと飛び上がる。その群れに軍隊で鍛えた鉄砲が火を吹く。散弾式空気銃を使用、1日で必ずといって良いほど20羽ほどはものにする。子供たちとはしゃぐ唯一の娯楽である。その他、釣りや果物狩りなど家族ぐるみの娯楽には母ちゃんも弁当をこしらえ笑顔で参加、過労の中での子育ての一環である。