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ファヴェーラ出身のシェフ=「料理が私の人生を救った」

 リオデジャネイロ市イパネマビーチの高級ホテルの料理長、ウィリアンス・アレス・オリベイラ・シルバさん(43)はリオの貧しい地域に生まれ、幼くして両親と別れた。そんな彼が料理人の叔父の職場を遊び場として育った後、豪華客船の厨房スタッフを経験し、「ボキューズ・ドール」と呼ばれる世界的な料理コンクールのブラジル代表を争うまでになった物語。
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 98年、フランス人の有名シェフ、ローラン・ヴィラールがリオのコパカバーナのホテル〃ソフィテル〃で新しいレストランを開くと知って面接に行った。
 話してみるとスー・シェフ(第2シェフ)は既に決まっており、一般コックのポジションしかなかった。給料は月300レアルだという。当時私はリオ北部のレストランのシェフとして、1500レアル稼いでいた。
 給料は5分の1になったが、そこで働きたかった。最初は困難だらけだった。借金はかさみ、妻にも見放された。これは私の〃未来に向けての投資〃だということを分かってくれなかった。
 2年後、シェフのローランは私を豪華客船で働く彼の友人に紹介した。大西洋横断客船のスタッフとして、月給4500ドルのオファーだった。しかも客船内の部屋代、食事代はかからない。
 しかし、英語が出来ることが条件だった。6カ月の猶予をくれたので、語学学校に通い、個人教師にも習った。24時間英語漬けになった。
 乗船の時、オーストリア人のシェフと会い、自己紹介をした。しかし、彼は私の英語が下手だといって乗船を拒んだ。
 彼は私の乗船を許可した会社に電話したが、結局、航海中に私がヘマをやらかしたら、南アフリカで降ろし、ブラジルに送り返すという条件で話がついたようだった。
 そこではほとんど8年間働き、英語もフランス語も上手になった。私にとって、料理は何かと定義するのは難しい。料理は私の人生の救いだ。

過酷な幼少時代

 私は2歳の時に母に捨てられた。私を叔父の家に置いたきり、二度と現れなかったのだ。1年後に父が現れ、父と共にサンパウロ州タウバテ市に移り住んだ。9歳で父も亡くなり、リオ市近郊のサンゴンサロ市に住む叔父の家にもどった。家に残っていても私の面倒を見てくれる人はいなかったので、叔父の仕事についていった。
 叔父はコパカバーナにあるホテルのシェフだったので、子供時代の一部をその厨房で過ごした。厨房はとても楽しく、ブリガデイロ(チョコレート菓子)を作るのを手伝った事もある。
 14歳の時、イパネマにあったイタリア料理店に見習いとして入った。その後さらに2軒店を渡り歩いて、世界に飛び出すチャンスに恵まれた。

世界を股に駆けた客船時代

 客船で働くようになってからは、全ての大陸を知ることが出来た。客船はいろんな港町に寄航して2、3日停泊した。独身だったし、旅行者気分で街を楽しむには充分な時間だった。行く先々で最高のホテルに泊まったし、最高のレストランにも行った。ドバイでは客船型の超高級ホテル〃ブルジュ・アル・アラブ〃に泊まり、サイゴンではリムジンを借りて最高のレストランに乗りつけるといった具合に。
 節約は一切せず、稼いだ分は全部使った。ローランはそんな私に、「貯金しろ」と口を酸っぱくして言っていた。「ウィリアンス、将来どうする気だ。与太話して木戸銭でも稼ぐ気か?」と言うから、冗談交じりに答えたよ。「ええ、いっぱい変わった経験をして与太話のネタを仕込み、それを聞かせて木戸銭稼いで生きていきます」ってね。
 客船の中ではネルソン・マンデラさんのディナーも担当した。厨房から出て直接挨拶もしたなあ。モナコ王室のためにも料理したよ。考えてもみなよ。ファヴェーラ育ちで、何一つ持っていなかった俺が、こんな経験をしたんだ。

ブラジルへの帰郷

 ただブラジルが恋しくなったし、身も固めたくなってローランに電話したら、彼の片腕として迎えてくれる事になった。07年に帰国した時には料理人としての経験も、人生経験もたっぷり積んでいたけど、財布は空っぽだった。リオで働き始めてからすぐに、同じ店の見習いコックだったステファニーに恋をした。
 その後結婚し、今では4歳の息子と4カ月の娘がいる。妻には節約することを仕込まれたよ。2年前にはアパートも買ったし、同じ頃にローランが、イパネマにある系列ホテルのメインダイニングの総料理長に任命してくれたよ。(22日付フォーリャ紙より)