ブラジルの軍事政権時の「反抗のヒーロー」として今日まで語られる男がいる。それがジャーナリスト、ヴラジミル・エルゾーギだ。10月25日は、彼がこの世を去って40回忌を迎えた。
ヨーロッパ名で「ヘルツォーグ」と呼ぶエルゾーギは、1937年にユーゴスラビア王国オシエク市(現在のクロアチア)のユダヤ人一家に生まれた。彼の波乱万丈の人生は、ヒトラーのユダヤ人迫害を逃れ、国外脱出した幼少時からはじまっていたのだ。
エルゾーギはサンパウロ大学で哲学を専攻した後、ジャーナリストとなり、70年代前半までにサンパウロ州の運営するテレビ局「クウトゥーラ」の編成局長をつとめるようになっていたが、彼は同時に大学のジャーナリスト・コースで教鞭を取る教授でもあり、また劇作家としても知られていた。
それと同時にエルゾーギは、軍政の最中、政党活動が禁止されたが秘密裏に活動していたブラジル共産党にも参加し、軍による思想弾圧に抗戦していたが、そこで目を付けられてしまった。
75年10月24日、エルゾーギは軍政を支持派のサンパウロ州議会議員らの手で軍関係者のもとに連れて行かれ、共産党との関係について明らかにするよう要請された。彼は供述を行うため、翌25日に陸軍秘密警察(DOI―CODI)サンパウロ支部へ自主的に赴いた。軍は、共産党は武力抗争を企てており、州政府内でスパイ活動を行っていると疑っていたが、エルゾーギは違法な活動には参加していなかった。
エルゾーギとしては、ただ単に供述を行うためのDOI―Codi行きだったのかもしれない。だが、彼は他のジャーナリスト2人と共に房に入れられた後に、軍から拷問を受け、帰らぬ人となってしまった。
サンパウロ大学歴史学科のシセロ・アラウージョ教授らは、エルゾーギの死を「軍には殺す意図はなく、拷問の行き過ぎによる事故死だったのではないか」と憶測しているが、そのせいかどうかの確証はないが、軍はエルゾーギの首に縄をかけ、窓から首吊り自殺をしたように見せかけ、「自殺」だと公表した。
だが、この死はすぐに不審視され、6日後の31日、サンパウロ市中央部のセー広場で抗議集会が起こった。これは1968年以降では初の大規模な抗議集会となった。アラウージョ教授は、エルゾーギの死とそれに続くセー広場での抗議を、10年後の85年1月の軍政終焉につながる「終わりの序章」と位置づけている。
その後、エルゾーギ死亡時に現場にいた人たちや遺体の写真を撮った写真家らの証言もあり、拷問死の線は固められて行き、13年3月、真相究明委員会によって遺族に正式に拷問死であったことが告げられた。
エルゾーギにまつわる書物やドキュメンタリーは、1964年から21年にわたった軍政時代について今日もっとも語られることのひとつであり、ブラジルの民主主義を語る上で重要な存在となっている。