土地の測量――小禄村役所時代の体験を生かして
どうせ沖縄には帰らぬ覚悟で移住した。この国で幸せを掴むのだ。郁太郎はこの国こそ我らの国と心の底から誓っていた。
そんな生き甲斐を感じた郁太郎家に5男ジョージいさおが誕生、二世交ざりの9名家族になった。小学校終了後はオリンピアの町に住み込みで教育させ、ポルトガル語も不自由を感じない生活がつづく。子宝に恵まれた移民夫婦は農業と子育・教育に専念しつつも15年間農業に携わり、その間、7回も新地を求めて移転を繰り返した。農地が変わる度、土地の分譲測量は郁太郎がやった。
或る日、町に住むファゼンデイロが郁太郎を訪ねてきた。用件はファゼンダの測量をお願いしたいとのこと、郁太郎は「私は測量士ではありませんよ」、とお断りした。
地主は、「友人達から聞いた、貴方の測量は正確との噂だ、是非お願いします」、と肩を叩く。側で聞いている従兄弟の正栄も「やってあげなさい、そんなにお願いするのだから」という。
でも測量機具もない、どうやってあんな大牧場を、と再度お断りしたが、機具なら私のところにある、助手も居るというので、仕方なく引き受けることにした。
地主と助手2人、郁太郎4人で7日間、密林混ざりで上り下りの多い大牧場を注意深く測量した結果、面積が足らないと不満そうな地主、別の測量技師を頼み再測量させた。再測量した町の測量技師達は何の狂いもない郁太郎の測量の正確さに驚きを隠さなかったそうだ。終戦直後村役場での土地整理課の経験が遥かブラジルの奥地で物をなしたのだった。
農地が変わるたび、汗にまみれた重労働に耐えたが農地を購入する様な資金は望めない。そして夫婦も50歳を越した。子供達も成人になり日焼けした子女も年頃、移民夫婦はサンパウロ行きを決意した。せっかく慣れた農業も夫婦だけではどうにも成らない。
これからの将来を思うと、子供らと共に都会へ出て最初からやり直さねばならない。今なら家庭の舵取りにはまだ自信がある。「ねぇ、かあさん」、と顔を見合わせ笑顔を浮かべる移民夫婦であった。
父最期の地訪ねて
新しい生活に入る前に、以前から思い詰めていた父が絶えた最後の地・マット・グロッソ州アギダウーナ市を訪ねることにした。それには次男隆志と三男郁次と長女むつみの夫が同伴した。長い長い自動車の旅、サンパウロ州の奥地とはまた違う。地平線の彼方まで続く大農場や恐怖さえ感じさせる四方の鬱蒼と繁る原始林の中を汽車は悠々と進んで行く。
郁太郎は思わず立ち上がり周辺を見回し顔をしかめた。「何故こんな所まで来たのか」、と生前の父に想いをはせた。