恥ずかしながら最後まで地名が覚えきれなかったのだが、一行はトゥストラ・グティエレス(tuxtla gutierrez)まで飛んだ。隣国グアテマラに面したチアパス州の州都で、約50万人の都市である。夜、空港に着いたとき、90人の日本人を地元に人が珍しそうに見ていた。観光名所もないし、こんなに多くの日本人が来ることもないのだろう。19世紀に榎本殖民団が着いたときはどうだったのだろう―。
1836年に生まれた榎本武楊は、長崎の海軍伝習所で海運術を学び、オランダに留学した。
欧米列強が殖民地争奪戦を繰り広げるのを見るにつけ、資源の少ない日本が生き残る道も海外にありと考えたのも当然だろう。移民ではなく「殖民」することにより、日本民族を育て日本の海外飛躍の基盤に、というのが基本的な考えだった。
時の外務大臣だった榎本は、南洋諸島やマレー半島への調査を行うなどしていたさなか、在サンフランシスコ領事館を通して、メキシコ政府が移民を歓迎していることを知る。このため1891年、中南米初の領事館をメキシコに置いた。
同年から調査団を送りこむなか、メキシコ政府がチアパス州をコーヒ栽培に最適として推薦してきた。数度調査が行われ、岩手、愛知、兵庫県の36人(船中で一人死亡)が横浜港を出た。サンベニート港に降り立ち、中南米最初の日本人殖民が始まったわけだが、到着時期は雨季、良質の農地はすべてドイツ人が所有、マラリアなど風土病が蔓延していた。 見切り発車で始まった植民計画は、日本からの送金もすぐに途絶え、榎本も「各自勝手な職に就くべし」と非情な対応を取り、1年を経ず事業から手を引いたことで完全に頓挫した。
到着3カ月後には、4人がメキシコシティーの公使館(97年に昇格)まで1200キロを着の身着のままで36日かけて歩き、助けを求めた。その同じ道だろうか。アコヤカグアに向かうバスの外は、その当時と変わりないと思われる森林地帯が続く。明治人らが日本を背負い過酷な自然と戦った、歴史的場所に今まさに向かっている。
その車内で、ちょんまげ姿の松平健が「マツケンサンバ」で踊り狂っている。何の説明もなくDVDで流されたNHK歌謡コンサート。往時に思いを全く馳せることができないまま、行き交う車も少ない300キロを走り、アコヤカグア市営墓地に到着した。
90周年祭に作られた「CASA・DE・DESCANSO」で最後のお別れをする棺台を参加者らが囲み、春日カルロス会長が「日本語は話せないが、心は日系人でみなさんを歓迎している」とあいさつ。本橋会長が「ラ米初の移住者に敬意を表します」が献花を行った。
同市職員のガブリエル・クルス・アントニオ氏(37)によれば、アコヤカグアの約1割が日系だという。約120年経つわけだから、7、8世が生まれていることだろう。
続けて、1968年に榎本殖民70周年を記念して建立され、芭蕉の句「夏草や つわ者共の 夢の跡」(ママ)が刻まれている記念塔のある中央公園に向かう。かつて市長も二度務めた小向・松井ガリレオさん(59、三世)が歓迎の言葉を述べた。この公園では毎年11月に日本祭りが開かれているという。(堀江剛史記者)