前節の藤野純三のような戦勝派が「日本は負けるはずがない」との信念で固まっていたのは、戦前移民の大半は「5年、10年したら金を貯めて日本に帰る」つもりでいたことに関係する。
1939年に刊行された現勢調査報告書『バウルー管内の邦人』(輪湖俊午郎編)の巻頭で、在留邦人の実に85%が「帰国」する意向だと答えた。この人たちの多くが、戦後「勝ち組」になり、その中でも熱心な人ほど「再移住論」を支持したと推測される。
戦前、米国の圧力でブラジル政府はマスコミを挙げて反日キャンペーンを行い、その強い圧迫感の中から「海南島再移住論」が生まれていた。
39年4月29日付『サンパウロ州新報』で香山六郎は、早々と「国際変化から観て吾々不同化分子は亜細亜(あじあ)へ帰ろう」との一文を掲載した。「在伯日本人の不同化分子よ、ブラジルを去ろう。それは日本人の不同化分子を幸福にすることであり、御厄介になるブラジル人に不安と嫌忌の念を消滅させることになる」と呼びかけた。
その2年後の41年1月に日本語新聞禁止令が発布されたのを受け、7月末に同紙は「アジア人はアジアへ帰ろう!」との告別の辞を掲げて廃刊、翌8月には全邦字紙が停刊となった。
最後の言葉が「アジアへ帰ろう」であり、それが唯一の〃希望への道筋〃として暗い戦中に同胞社会の心の奥深くに刻まれ、戦後に爆発した。
戦争中、移民にとって唯一の日本語情報源となった短波放送「東京ラジオ」が伝えたのは、大本営発表だった。盲目的にその報道を信じ、目の前にあっても読めないポ語紙の情報は無視された。
「大戦勃発によって日本語の刊行物が消滅したことは、以後移民たちの大多数を完全に世界から隔離したに等しく、この間、耳に入ってくるのは密かに伝えられる大本営発表の戦果であり、ブラジルの新聞の報じる連合国有利のニュースは、すべて敵側が放つデマ宣伝だとする習慣が作り上げられていた」(『70年史』89頁)。
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『移民80年史』に興味深い数字が掲載されている。1819年から1933年末までにブラジル入国した外国移民は462万3789人もいるが、うち53%は別の国に再移住、もしくは帰国したというのだ。イタリア移民で定着したのはわずか12・82%で〃渡り鳥移民〃と呼ばれた。ドイツ移民は24・49%、同じ言葉のポルトガル移民ですら41・99%しか定着しなかった。
ところが日本移民は93・21%が残った。欧州移民と違って移住慣れしておらず、踏ん切りをつけるタイミングが分からず、選択肢もなかった。米国が日本移民を禁止して以降は転住先もない。かといって日本に帰る金は貯まらない、気が付いたら5年、10年と経ち、戦争が始まって帰れなくなっていた。
20万人のうち85%が帰国したかったのに、帰れたのはわずか7%。つまり78%は敗戦で帰れなくなった。帰国を熱望しながら帰れない――この厳しい現実が引き起こした集団心理はなんだったのか。
現在の視点から見るなら何らかの「精神疾患」発生が疑われる環境ではないか。現代の社会心理学や医学の目からみても、勝ち負け抗争は大きな研究材料になる。(つづく、深沢正雪記者)
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