文化センター「江戸村」では、子供たちがかわいらしい着物姿で童謡「紅葉」を歌いながら迎えてくれた。この通りは「カルロス・カスガ・オサカ」通りと名付けられている。メキシコ日系社会のドンと呼ばれる春日カルロスさんはアコヤカグアの教育に力を入れている。というのも、移住90周年の際、ヤシの葉で屋根をふいた学校の生徒13人のうち5人が日系の名前だったことを知ったのがきっかけだという。
「メキシコシティには日墨学院もあるのに、榎本移民が住んだ地でこれはいけない」と思い立ち、校舎6棟を皮切りに学校への支援を始めたという。公立校では珍しく電子黒板もあり、高校の卒業生をメキシコシティに招待するという「修学旅行」も実施している。
97年には校名に「日本移民100周年」をつけた。施設の充実ぶりが地域の生徒を呼び、今では遠方から通ってくる生徒もおり、中高あわせて1000人以上というマンモス校となった。
春日さんにとって、アコヤカグアは「根」だという。「美しい花を咲かせるためには、枝、幹が大事。それを支える根がなくてはメキシコ日系社会がダメになってしまう」。そんな春日さんの思いが通じているのか、生徒たちは満面の笑みで日本、ブラジル、メキシコの小旗を振って迎えてくれた。
会場では、メキシコ料理、マリンバ演奏、伝統舞踊などが披露され、思わぬ大歓迎に一行を感激させた。
角谷真美子さん(66、愛知)は「子供たちが日の丸を持って迎えてくれたのに感激した」と目頭を押さえ、常連の参加者らも「これほどの歓待は初めて」と感動しきり。宮下チエ子さん(65、福島)も「ブラジルのコロニアにはいないね、春日さんみたいな人は」と感心していた。
見た目から日系人というのは分からないが、学校関係者によれば、1割以上は日本人の苗字を持っているという。
「日本に行ったことがないです」と、勉強している日本語で話すのは、鈴木アイコさん(13、四世)。竹村クミコさん(17、三世)は、大阪生まれで9カ月でメキシコへ戻ったという。小向武くん(17)と妹の真由美さん(14)は、「3年前に戻ってスペイン語に苦労しました。日本にまた戻りたい」と話した。
一時間ほどのところだから、マデーロ港(当時はサン・ベニート)へ。まさに118年前に榎本殖民団が降り立った地点にほど近く「移民史は 百年となりぬ先人の みたまやすかれ メキシコの地に」と刻まれた慰霊碑がある。約60家族がいるチアパス日本人会の小向マリア・アルヘリア会長(60、三世)が迎えてくれた。
玉城道子さん(77、青森)は「よくあの時代に男だけで来たものだと思う。メキシコの日系人は少ない人数で歴史を守っているような感じ」と話していた。
榎本殖民計画は頓挫した。しかし同地に踏み留まった6人を中心に「日本人ここにあり」といった奮迅の活躍をした。出身地である愛知(三河)、岩手(奥州)から取った「三奥組合」を立ち上げる。すべての資産は組合に属するといった社会主義的組合で、醸造所をつくり、日用品販売、ソーダ工場、などの共同事業を展開させた。日墨協同会社は、小学校を設立、5歳から寄宿舎で生活させ、日本語を教えた。
そしてスペイン語辞典「西和辞典」も編纂する。1925年に東京で刊行された、この日本初のスペイン語辞典は、全ての日本語にルビがふられている。これも次世代のためを考えたものだった。
榎本の理想を追求した同社は、メキシコ革命の勃発で1920年に解散する。革命後、多くの国が革命中に受けた損害の賠償請求をしたが、日本人は、「国の発展のための革命はやむを得ない。第二の故郷メシシコの発展を祈る」として、請求権を放棄した―。
日本を愛し、メキシコを愛したサムライたち。彼らの足跡をもっと辿りたかった―。そんな気持ちになった今回のふるさと巡りだった。(堀江剛史記者)