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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(56)

危惧、的中

 この間、ブラ拓事務所と産業組合の危惧が、早くも的中していた。
 1942年2月4日、セボロン区の志津源次郎の甥、小泉徳雄(25才)が、市街地に買物に出ての帰途、路上で、カマラーダたちに襲われ、頭部を乱打された。近くの邦人宅へ避難し介抱を受けたが、間もなく絶命した。
 カマラーダは、不気味な存在となった。8月18日、市街地で彼らが示威行動をしながらデモを行い、邦人を脅かした。
 翌1943年3月18日、パルミタール区の入江一が、もう一人の住民と荷馬車で、別の区へ行く途中、17歳と13歳の少年からピストルの乱射を受けた。弾は入江に当り、死亡した。この少年たちはカボクロの子供で、日本人を殺しても罪にならないと思っていたという。殺傷事件は、このほか二、三件あった。
 これらの事件は、米英の工作員によって、急速に醸成された反日ムードの結果であることは明白であった。

警官も……

 警官による迫害も多数起きた。
 彼らは、まず日本語の指導や使用に目を光らせた。前出の嶋田巧氏は当時、少年であったが、
 「叔父が、子供たちに日本語を教えていたという理由で逮捕され、クリチーバ(同市にある州警察本部)へ送られた。半年後、帰ってきた時は真っ白い顔をしていた。
 父は街で日本語を話していた──と警察に連れて行かれ、一昼夜、留置された。同じ理由で、移住地の住民が何十人も引っ張られた。留置場は便所も無く、酷いものだったそうだ」
 真っ白い顔……というのは、精神的・肉体的虐待を受けたことを現している。便所もなく……は、わざと大小便を出し放しにさせるほどの非人道的扱いぶりだった──ということであろう。当時の警察がよく使った手である。なお市街地アサイには、開戦の少し前、警察の分署が設置されていた。
 1942年7月、一邦人が、日本語の説明文のついた世界地図を所持していた──というだけの理由で、分署員に拘引され、ロンドリーナの本署に送られた。釈放されたのは1カ月後だった。(この時点では、本署はジャタイからロンドリーナに代わっていた)
 無意味な家宅捜索も繰り返された。邦人宅に突如、数人の警官が雪崩れ込んできて、女、子供を震え上がらせながら、日本語の本やレコードを出せ、と要求する……その種のことである。

連合日本人
会長まで…

 同年、トゥレス・バーラス連合日本人会(開戦後、活動を停止中)の会長、館脇利一と甥の菊池タダシが、分署員によって、クリチーバの州警察本部に送られた。さらにサンパウロ市の警察へ移送された。(どの警察かは、資料類には不記載だが、DOPS=政治社会保安警察=であろう)
 二人は、日本のスパイという嫌疑をかけられていた。それを自白し、他のスパイの名前も明らかにせよ、と迫られた。釈放された時は、全身憔悴しきっていたという。これも虐待を受けたことを現わしている。
 連合日本人会会長といえば、この移住地の代表者であった。それに、警察は、こういうことをしたのである。無論、スパイなど、荒唐無稽な話であった。
 ちなみに、この館脇という人は、後年、資料類の中で「人物は後にも先にも館脇利一さんだろう」と評価されている。金や物ではなく、人格・器量で評価すれば、館脇以上の人は、この移住地には居なかったという意味である。戦後も連合日本人会長を務めた。