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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第29回=吹き出す戦前戦中の怨嗟

 同選集第2巻に収録されている安井新(本名・藪崎正寿)の小説『路上』(1958年第2回パウリスタ文学賞受賞)には、戦中の45年2月、一千家族の日本人植民地が約400人の州兵によって徹底的に家宅捜索され、略奪・暴行を受ける様子を小説として描いた。当時の日本移民の心境を説明して、こんな一節を書いている。
 《もし祖国が何の価値もない下らない国となり果てたなら、自分達も同時にそう扱われるだろう…と移民たちは考え始まる。ジャポンと呼びかけられ疵付かないためには、常に祖国は優秀であらねばならない。ジャポネイスと呼ばれ動じないためには、そのジャポンに絶対の矜持を持つ他ない。(中略)つまり、「民族的自覚」とはそのような保身の絶対絶命から生み出されたものなのだ。がそれはやはり弱者の意識だ。(中略)在留邦人の「民族的自覚」はしかし当局の取り締まりが厳重の度を増せば増すほど白熱化していった。一般在留邦人にとって祖国の勝利は冷静な判断の帰結としてではなく、寧ろ唯一の祈願として信念化したのだ。…日本は勝たなければならない…》
 戦後、「自分は勝ち組だ」と名乗りを上げられない〃心情的な勝ち組〃は、「認識派」を自称しながら勝ち組の怨嗟の声を小説という形で表現していったのではないか。
 とはいえ『コロニア小説選集』第2巻(77年)の後書きに、清谷益次は《日系コロニアの一人一人の心に深い傷を刻んだ〃勝ち組、負け組〃の問題も、幾つかは小説の形をとって文学賞に応募されはしたが、陽の目を見得たものは、誠に蓼々たるものである。発表されたものも、作品化されているというのには、甚だ遠かった筈である。コロニア小説作者たちは、このナマナマしい、長い期間に亘って繰り広げられた愚かにも悲しいこれほどの出来ごとを、客観し分析し、作品として構成、昇華させるだけの力を持ち合わせなかった、といえる》と書いた。
 つまり岸本のように、終戦直後に「加害者を告発」するノンフィクション書いた人間は稀だ。歴史と言う形では書くには時代の制約が強すぎ、小説で表現するには技巧が難しすぎる。出来不出来は別にして、未消化のまま、吐き出すしかなかった。
 もしくは黙る――しかなかった。前山は次の言葉を引用する。《移民は唖……ですね。移民にできるといえますか、成すことをゆるされているといえますか、する最良のその仕事は、泥のように石のように黙りつづけることですね。(安井新「ボクの中の国…」1972年)》(『異文化244頁』)。そのような時代であった。
 5、60年代に発表された小説の一部には、果敢に日本移民迫害の古傷を掘り返して、それをどう心理的に納得、昇華しようかという試行錯誤があった。10年、20年の時間をかけて、自らを慰め、徐々に折り合いをつけて事実を受け入れて行った。
 だからコロニア文芸のもう一つの特徴は「郷愁」だった。細川周平は『遠きにありてつくるもの』(みすず書房、08年)の中で、移民が繰り返し郷愁をテーマにした文芸作品を作ってきた心理を分析し、《郷愁は寂しさを助長しながら慰める。人は記憶のなすがままにされ、その奴隷となる。(中略)生きものとなった郷愁にまんまとしてやられる。だがその受動的な意識の流れには、現実のつらさを軽くする作用がある。移民文芸を通読してみて、郷愁の吐露が戦前、戦後であまり変わっていないのに気づく。出稼ぎか永住かにかかわらず、ふるさとは移民の妄執だった。郷愁は支配的な心情であり続けた》(56頁)と見通している。(つづく、深沢正雪記者)