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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(61)

公民学園の卒業記念写真(1952年12月、松本信代さん提供)

公民学園の卒業記念写真(1952年12月、松本信代さん提供)

 1946年7月、谷田を含む78人が、アンシエッタ島の刑務所へ送られた。谷田、48歳であった。島流しは同年末まで続き、計170人となった。その中には、襲撃実行者もいたが、大部分は無関係(無実)の臣聯の役職員や一般の戦勝派であった。
 なお──すでに記したことであるが──この島流しは、起訴以前の段階であり、正規の刑務所への収監ではない。拘置の延長である。(彼らを、サンパウロ市から隔離するため、アンシエッタ島の刑務所の一部を、一時的に拘置所代わりに使用した。当時の法務大臣の発言から、そう判断できる)
 170人は数年の間に逐次、仮釈放された。内、襲撃実行者は後に裁判を受けて服役したが、それ以外は、検察側が起訴に持ち込めなかった。つまりDOPSは敗北したことになる。
 谷田の釈放は最後の方になった。本人が、この不当勾留にヘソを曲げて、安易な出所を拒否した──という言い伝えもある。
 出所の正確な時期は不明だが、筆者は1948年末か翌年初めと推定している。
 アサイに戻ると、戦勝派の人々の谷田詣でが続いた。英雄扱いであった。さらに彼らはアサイの市街地の(戦前あった町会に代わるものとして)日本人会を設立、谷田を会長に選出した。これが、1950年のことである。市街地の住民は340家族、日本人会の加入者は戦勝派の170家族、丁度、半数だった。(対して敗戦派は翌年「アサイ市会」を設立した)
 やはり1950年、谷田は公民学園という学校(日本語)を開設している。
 アサイに戻って以降の右の勢い、まことに盛んである。彼の留守中、製材所は家族によって営業を続けていたのであろう。


同志、来たる

 その谷田の所へ、アンシエッタで親しんだ臣道聯盟の仲間が、何人か移動してきた。親分肌の谷田が誘ったのである。
 吉川吉郎(理事長の吉川順治中佐の長男)、本部理事の佐藤正雄(ポンペイア)、その息子で本部職員だった正信、ツッパン支部の松本勇などである。後から病身の吉川中佐までやって来て、息子の家に身を寄せた。ほかにも居ったようだが、資料を欠く。
 この人々の内、吉川吉郎は、四月一日事件の折の狩込みで、警官が中佐を拘引した時「病身の父に、一人でカデイア暮らしをさせるわけにはいかない」と付き添い、アンシエッタまで、そうし続けた。「実に良い人柄だった」という評判を残している。
 佐藤正雄は、台所事情の苦しい臣道聯盟のために、全財産を投げ出したという人物である。息子の正信は、これまた純な人柄で、それは拙著『百年の水流』改訂版に記した。
 松本勇については、筆者は、これまで紹介する機会はなかったが、1946年1月にツッパンで起きた「日の丸事件」の当事者である。地元署の警官が日の丸で靴を拭いた──という目撃談を聴いた松本ら連盟員9人が詰問に署に行き、内7人が逆に留置されてしまったというのが、その概略である。
 この時は、ある陸軍士官が奔走してくれ、しばらくして釈放された。が、警察から目をつけられていた様で、それから数ヵ月後に起きた四月一日事件で狩り込まれた。
 松本の三男で、2014年現在ロンドリーナに在住のマサオさんは「ツッパン時代、父はカデイアに入たり出たりしていた」という。そのトバッチリで、長兄が、まだ17歳だったのに、警察に引っ張られ拷問を受けた。「自分はブラジル生まれで、ブラジル人だ」と主張したが、警官は無視した。母親が衣類を差し入れようとすると、それも受け付けなかった──という。