ボリビアの原始林に囲まれた入植地は、まさに昼なお暗くという感じだった。蚊はびっくりするほど大群で襲ってくるため、蚊の多い夏の方が、沖縄の米軍の払い下げH・B・Tカーキーのジァンバー長袖などを着込んで厚着をし、道を歩く時は木の葉で蚊を追い払いながら歩いていた。
日が落ちて暗くなるとますます蚊が多くなり、仕事で疲れていても緩めることさえ出来なかった。時々来客のある時は家の中で煙をたいて歓待した。僕は、夜になると蚊帳の中で手製のランプに火を灯し、スペイン語の勉強をした。
石油ランプは良く煙が出るので鼻の穴が真黒に染まり、人に笑われたものだ。入植当時の少年の頃の忘れ難い思い出である。
父と母は、蚊の侵入を防ぐために、白蟻の巣(枯れ葉を固めて作られている巣を燃やし、その煙で蚊を追い払っていた。現地の先住民から教えられた日常生活の知恵であった。
それにしても効き目は十分で、まさに日本の蚊取り線香のように効果があり、どこの家庭でも一日中煙らし続けていた。
ボリビアの原始林の中の移民受入れ小屋での生活の始まりは、このように蚊との戦いであった。誰しも、このように蚊がいるとは、想像もしなかっただろう。1954年度に入植した一次移民(うるま耕地)は原因不明の熱病発生のために148名が発病15名の犠牲者をだしたが、第二耕地ではマラリア患者はいたが運良く死者は出なかった。
1959年第7次移民。僕ら家族を含めたウチナーンチュ開拓者45家族244名が入植した。当時は道一つない原始林そのものであった。大人たちは、総合配分地の地図を広げて、(6・7・8次移民)各グループに分かれ、一家族に与えられた50町歩の配分地の切り分け線を、第一コロニア移住地(第1次~5次移民までの耕地)より測量器を借りて、永山哲、山城興喜、与那城清勇氏らが先頭に立ち、第2コロニア沖縄移住耕地を造り始めた。
蒸し暑い7月の忙しい日々であった。僕はまだ13歳の少年なので、そのグループの中には認められなかった。だが、日常生活に欠かせない食料となる材料集めには船の中で学んだスペイン語が少々役に立ち、友達と馬にまたがり先住民の部落(ファン・ブルン)まで出かけて、ユーカー(マンジョーカ)、チャルケ(牛肉の干し肉)、鶏肉、鶏の卵、青パパイア(粗くおろし炒めて食べる)、ミカン、バナナ等の果物を買い入れる役目を果たした。
13歳の少年でも食料集めと水汲みには大いに役に立ち、大人同様の役割を果たす一人前の仕事であった。わが家では、母が沖縄から持参してきた野菜の種を蒔きおいたので、自家菜園からの野菜もすでに出来始めていた。