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自分史=ボリビア開拓地での少年時代=高安宏治=(2)

ボリビア出発前に家族記念写真。父・宏芳(こうほう)、母・光(みつ)、弟・宏(ひろし)、茂(しげる)と共に

ボリビア出発前に家族記念写真。父・宏芳(こうほう)、母・光(みつ)、弟・宏(ひろし)、茂(しげる)と共に

 その数日後、第7次移民者に与えられた配分地は、ラスペタ(山亀)区地域と名づけられた。この地域の一部には、その昔牧場があったという跡地がそのまま残っていた。子牛が生まれる度に野獣に襲われ、牧牛を増すことができずに牧畜業をあきらめ別の場所に移動したという。その話は20~30年前の話だと聞かされたが、こんな原始林の中にすでに移民した人々がいたのか、と何か理解しがたい思いだった。

移民入植配分地

 僕たちの家族に与えられた配分地は、その跡地の近くで、移住者各自同様に住宅地造成のために一町歩ぐらいの面積を大人二人が両手を広げて取り巻く程の大きな木を伐採することから始めた。木の根っこの掘り起し、焼き払い、地ならしをして、ジャングルから切り出した丸太を横に並べて仮小屋作りだ。
 ところで、沖縄移住地の一番の大きな悩みは、満足に飲める水が無いことであった。
 水浴する水はおろか、花木・野菜に注いでやる水が無い。5~6メートルの深さまで井戸を掘っても、出るのは塩っぱい水だけだ。水の問題を解決することなくして移民地の将来を考えることはできない、と誰しも思いつめていた。
 ケダモノの足跡の窪みみや轍に溜まったボウフラの湧いている濁った水をドラムカンに貯め、それに鶏の卵の白身をかき混ぜて泥を沈め、この水を沸かして飲んだ。おそらく、人が生き抜くための「生活の知恵」を肌身で感じた初めての体験ではなかったか、と思う。
 正直言って、汚い水を飲んで病気した人はいなかった。開拓初期は、このような水を飲んでどんどん前へ前へと仕事を進めていった。その一年後僕は、1キロも離れたパイロン川から、落ち葉で染まった茶色の水を天秤棒にスイカン(水を運ぶ道具)を両方にぶら下げて担いだ。
 慣れてない仕事なので肩が赤くはれ上がり、肩にまくらを置いて、我慢しながら毎日の役目をはたした。受け入れ小屋からは現地の配分地までは遠く、食料、鍋道具等を二つのカマスに詰め両方口を縛り、馬の背中に乗せて運ぶ。8キロの山道を丸一日がかりで、数日間もかかった。
 その仕事は体の小さい僕にとってはかなり重荷であったが、馬に乗り荷を運ぶには適当で一人前の仕事であった。僕は、自分に与えられた当たり前の仕事と思い難儀をいとわなかった。
 原始林の中の細道は、昔、アメリカ人が石油と原木を採るために作った貫通道路で馬一頭しか通れない細い山道だった。その道沿いには山亀が生息しており、行き帰りにはそれを捕るのが楽しみであった。
 僕は、猟銃の使用を禁じられていたので、5キロ、ときには10キロの大亀を生け捕るのが僕にとっての狩であった。一人で無我夢中で生け捕るスリルを楽しんでいた。ジャングルから捕れた動物は、鼠以外は何でも食べた。最初は可哀想で気持ち悪くなり、手を付けなかったけれど、大人たちが美味しそうに食べるものだから、あとは慣れて何でも食べた。