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「入植適地調査よもやま話」開始=人魂、火の玉も出る冒険譚?

坂本邦雄さん(2011年8月撮影)

坂本邦雄さん(2011年8月撮影)

 ブラジルのお隣、パラグァイ首都アスンシオン在住の著者・坂本邦雄さん(86、神奈川県横浜市生まれ、本籍=栃木県宇都宮市)は4歳の時、家族でモジアナ線に入植した元ブラジル移民だ。一年もしないうちに実父と妹を病気で失い、母は酒井好太郎と再婚した。
 この義父の海外殖民学校の校友が、パラグァイ移民の草分けの石井道輝だった。1918年に東京都世田谷に崎山比佐衛が創立したこの植民学校の卒業生のうち700人以上が南米(亜国、ボリビア、パラグァイ)に向かい、中でも300人余りはサンパウロ州に入った。
 同校卒業生にはパ紙創立者の蛭田徳弥、鰯缶詰工場を経営していた五十幡(いそばた)直義、在聖総領事館の元顧問弁護士・大原毅の父豊、ホーリネス教団の山本博康牧師らもいる。
 1934年にブラジルで二分制限法ができたのを受け、別の送り出し先としてパラグァイが急浮上し、海外移住組合連合会の中に「パラグァイ拓務部」(パラ拓)が発足。石井がその準備に参加していた関係で、酒井にも「一緒に来ないか」との声がかかり、両親に連れられて坂本さんが先陣としてラ・コルメナに乗り込んだのが、1936年5月15日――この日が「パ国日本移民の日」となった。
 日本は戦後1956年にパラグァイと国交を回復し、翌57年に戦後初の黒田音四郎特命全権公使が赴任。30年間に8万5千人の農業移民の導入を認める「日パ移住協定」を結んだ。その入植適地予備調査のために、日本海外移住振興会社で働いていた坂本さんが日本から来た技師を乗せて、ジープで走り回ったときの経験が、この寄稿文の内容だ。
 邪魔な枝やツルを除去する人夫を雇って《猛獣達も通るとかの原始林の真っ只中での細道》を進む中、ジープが横転する波乱も。野宿している時に《〃人魂〃がスースーッと上空を通って行く》のを目撃し、《昔ブラジルで見て来た〃火の玉〃》の話を思い出すくだりなど、草分けの坂本さんならではの読みどころ満載の逸話集といえそうだ。