早いもので、来年(2016)は「パラグァイ日本人移住80周年」を迎えるに当り、様々な記念行事のプログラムの準備が各関係当事者の間で着々と進められている。
言うまでもなくその起源は、戦前の初にして唯一の日系集団計画入植地、現ラ・コルメナ市の開拓に内田千尋初代パラ拓支配人と笠松尚一技師、それに私の義父酒井の3名(いずれも故人)が先陣として現地に乗り込んだ1936年5月15日がパラグァイの日本人入植記念日に決まったものである。
しかし、それ以前にラ・コルメナ建設の事前調査などで貴重な協力をして来られた故石井道輝氏の他に尊敬すべき福岡庄太郎、星田宗人、宇田川吉五郎、中尾栄積、伊東源治、近藤重行、会田藤太郎兄弟と、なお幾多の単独来住のプレ・ラ・コルメナ組み先住者の方々が居られたことも忘れてはならない。
そもそもラ・コルメナ移住地の始まりは、1934年のブラジルヴァルガス政権下で公布された移民二分制限法によって、それまでは正に盛んだった日本人のブラジル渡航がドラスチックに削減された大打撃で、その対策の捌け口に隣国パラグァイが代替入植先に選ばれたのに起因する。
かような次第でパラグァイの日本人移住史は兄貴分のブラジルとは切っても切り離せない因縁にある。そして、義父の酒井夫妻に連れられて私がこのパラグァイに、ブラジルから移って来たのが1935年の10月の事だった。
その動機は酒井が東京の海外殖民学校で前述の石井道輝氏と同窓生だった関係で、同氏に「今度初めてパラグァイに日本人植民地が出来るが来ないか」と誘われたのが発端だった。
この話でも分かるように、私は幼少の頃、最初はカフェー耕地に入植した元ブラジル移民だったのが、ラ・コルメナが出来る1年前にパラグァイに転住した訳で、当国在住は今年(2015)で満80年になる。
そして、ブラジル生まれでもなく、南米に住んですでに通算83年目だと申せば、私の年齢は言わずとも今何歳なのかは推して知るべしである。
何も唯こうして年を取ったのが自慢にもならないが、長生きすると人生は自ずと恥じも掻く色んな事があるもので、ここではそんな「よもやま話」に触れて見たいと思う。
今こそ気軽にラ・コルメナ市とは言うが、その昔はニワトリがタマゴを産むように、そう簡単にパラグァイの第一号日系植民地が始まった訳ではなかった。
当時、丁度彼のボリビアと3年間も続いた「チャコ戦争」(1932ー35)の終戦直後のパラグァイは、日本人移民受容れに好意的な戦勝大統領エウセビオ・アジャーラの政権下にあり、ラ・コルメナ建設の話は順調に進んでいたのだが、1936年2月17日に突如生じた、いわゆる「2月革命」の軍事クーデターで、ラファエル・フランコ大佐が政権を奪取する思わぬ政変が起きた。