この超国家主義のフランコ新政権は外国移民の導入に限定的な規制を敷き、前政権との移民政策は対照的に異なり、おりしもブラジルの〃移民二分制限法〃の影響もあってか、同年4月30日付でようやく下りた、日本人農業移民100家族の導入を認める大統領令第1026号には「試験移民」という厳しい条件が附された。
なお、ラ・コルメナにとって不幸だったのは植民地開設後間も無い、1941年12月8日未明(当地では7日)に日本海軍によるハワイの真珠湾奇襲攻撃で日米開戦となり、第二次世界大戦へと発展した事だった。
これで、大戦中を通じて祖国との音信や支援は途絶し、孤立状態に置かれたラ・コルメナ植民地は、この逆境や開拓初期の人知れぬ多くの苦難によく耐えて、民族的な試験移民の使命を見事に果したのであった。
この尊いメリットがパラグァイ官民に等しく認められ、戦後いち早く日本人移住の道が再び開かれた要因になった事は周知の通りである。
日本は1956年に、すでに無類の親日国として知られたパラグァイとの国交を回復し、時の岸信介内閣は政治的、経済的又は文化的な協力や交流を進め、特にブラジルと共に日本の海外移住の二大拠点として移住を促進するため、日パ友好関係の増進に力を入れた。
かくして翌1957年1月には、戦後初めての特命全権公使として、黒田音四郎氏がアスンシォン市に赴任し、先ずここに晴れて在パ日本公使館が新設された。
日本政府もパ国初代駐在公使に大物の人選に配慮したものか、黒田公使は体格も大きくて頭はげだが大入道のような堂々とした風格があり磊落だった。声が良くて「黒田節」を歌ったように記憶する。
初婚はアメリカ人の奥さんだったそうだが、パラグァイ赴任時は日本人の女医さんが後妻でご一緒だった。英語が堪能で「俺の英語はアメリカ人よりも上手いんだ」と自慢していたと、先にも触れた石井道輝氏が話した事がある。
この石井氏について黒田公使は、「パラグァイ着任に際し、スペイン語の達人で人柄も良い、石井道輝君という移住専門家が、私の補佐として働いてもらう事に成功したのが公使任務の遂行の重要な鍵になった」と述懐し賞賛している。(パ共和国大統領訪日記念出版『パラグァイと日本』参照)。
そして黒田公使は、当時は専らプロペラ機の時代だったが、日本からの赴任もニューヨーク経由バリグ航空でブエノスに行き、そこより、アメリカが第二次世界大戦で使った大型飛行艇を旅客機に改造したアルゼンチン航空の定期便でアスンシォン港に着水した。
その頃はまだ現在のアスンシォン国際空港は完成していなく、アルゼンチン航空のブエノス?アスンシォン間の航路は、ラプラタ/パラグァイ河に沿って途中アルゼンチン領の河川港にも寄りながら終点のアスンシォン港にバシャンと着水するものであった。