外国人児童の学習が順調にいかないことを残念がる松下さんの言葉に、エリザベスさんも肯きながら、「よその子はああなったから、あの学校に行けたから、うちの子もそのままにしておけば同じようになれる、と親は単純に考えてしまう。進路は人の言いなりで学校任せ。学校に電話してもすぐに通訳に替わってもらう、それでは思いが伝わらないでしょ」と同意する。
日本社会とのコミュニケーションを間接的にすることで、隙間やずれが生じる。その歪みは真ん中にいる子供にのしかかる。「親は、子供は自分と同じ、自分の味方と思っているかもしれないが、子供は別。プレッシャーがかかりすぎてそのうち親子関係が破たんしかねない」と松下さんは真剣に訴える。
かつてブラジルでも日本人移民の子供がブラジル人同級生に日本語なまりをからかわれ、引っ込み思案になり、それが引き金となって今で言うコミュニケーション障害のようになってしまうこともあったという。二世世代は社会と親を繋ぐ緩衝材にもなるが、糊しろのように表に出ずひたすら繋ぎ役としてすり減らされる危うさを抱えている。
また、学校外のことに関して、「週に2回も夜遅くまで教会の集まりに子供を連れていかれるのは困る」と松下さん。心の拠り所は確かに必要だが―と宗教には口を出さないが、中には高額の寄付を集める教会もあり、「それなら子供の将来のために貯金してあげたらいいのに…」と心配は尽きない。
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夕方になり、中学校からの生徒が塾へやってきた。建物の2階が塾になっている。小学2年生から中学3年生までが同じ空間で勉強し、合間にオセロや雑談をして息抜きをする。
エリザベスさんの中学生の息子も通うが、反抗期真っただ中。エリザベスさんにも松下さんにもむすっと暴言でしか返さないが、同じ中学の3年の先輩にはしゃきっと丁寧な受け答え。
そのやり取りを見ながら茶化して笑うのはマンダト・ハルミさん(小5、四世)。生まれも育ちも日本だが、漢字が苦手でセンターの塾に通っている。
「将来の夢はモデル」と話すと、中学生からはヤジが飛ぶが平気でやり返す。十歳近い年の差のある子供たちが机を向かい合わせて勉強したり話をしたりしている様子は、和やかだ。和やかすぎて、学習塾としては無駄が多すぎるかもしれない。だが、その〃弛み〃がこどもをハンモックのように掬っているように思える。(つづく、秋山郁美通信員)
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