パウリスタ新聞元副社長、ニッケイ新聞顧問だった中野光雄さんが1月1日午前、サンパウロ市アクリマソン区の自宅アパートで亡くなっているのが、家政婦によって発見された。死因は突発性心臓発作。享年85。6日午前8時からセミテリオ・サンペドロ(Avenida Francisco Falconi, 837, Vila Alpina, ヴィラ・アウピーナ火葬場の隣り)に遺体が安置され、葬儀は午後3時から行われる予定。
中野さんは1930年7月14日に北海道旭川で生まれ、6歳の時に東京都浅草に移転した。1959年に渡伯してパウリスタ新聞の発送部から始めて営業部に移り、邦字紙一筋の人生を送った。1983~93年までパ紙営業部長、93~98年の合併時まで副社長。
ミス・コロニアやミス・ニッケイ、パウリスタ・スポーツ賞などの社主催イベントを毎年準備から運営まで担当していた関係で、他国日系社会要人や地方日系団体に顔が広かった。1998年に日伯毎日新聞と合併してからはニッケイ新聞顧問。中野さんは生前「パウリスタを潰さずに合併まで持って行ったことで、自分の役割は果たしたと思っている」と語っていた。
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