「ブラジル移民の父」上塚周平(1876―1935、熊本)を母県から顕彰する「イッペイの会」の米原尋子会長(69、熊本市)が昨年末から正月にかけて、13年以来5度目の来伯をし、7日に帰国した。サンパウロ州プロミッソン(第一上塚植民地)で昨年行われた「80回忌法要」には120人が参列など、当地で変わらぬ尊敬を集める上塚周平だが、母県にも篤い思いを持った人がいる。取材中、感極まり涙を浮かべながら活動の近況を語った。
プロミッソンで生まれ育った安永忠邦さんを訪ね、生前の上塚周平との思い出を語る様子を映像に収めることが今回の主目的だった。上塚周平と少年時代に直接の関わりを持つ数少ない生き証人であり、その人徳を事あるごとに周囲に語って聞かせてきた語り部で、現在では「上塚周平の墓守り」とまで言われる。
安永さんからは「子どもの頃、上塚先生の家に友達3人で遊びに行くと、『三銃士が来た。芋でもふかしてやれ』とよく言われたもの」という話などが聞けたという。
交流のあるブラジル熊本県文化交流協会の赤木数成書記から「残しておくべき記録では」と打診を受けて、来伯を決意。同氏を通し、同じく周平と交流のあった伊藤初江、ヒト江さん姉妹にも同様の映像取材を行う。今後編集し、各所へ発信する予定だ。
元々、同県内で記者職に就いていた米原会長は、本紙の藤崎康夫東京支社長(当時)の講演を聴いたのをきっかけに周平の足跡を追うようになり、06年に同会を結成した。小中学生へ向けた講演会や、副読本の作成、展示会の開催などを行ってきた。
今後の主な事業として、2018年「日本移民110周年」に向けて『上塚家の人びと』発刊を予定している。上塚周平はもちろん、甥で衆議を務めアマゾン開拓を実行した上塚司、また日本の各方面で活躍する上塚家の人々にスポットを当てるという。出版社との契約や各担当者の執筆も順調に進んでおり、「後世に残さなければならないこと」と米原会長は使命感を燃やしている。
また昨年、没後当地から熊本の上塚家本家へ送られた周平の写真など2千点余りが、資料を整理していた際に発見されたという。残っていた周平の写真の数は非常に少なく、「生誕140年」に当たる今年、当地での写真展開催に期待がかかる。
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「イッペイの会」米原尋子会長は、滞伯中に二つの不満を感じた。一つはリベルダーデのコンセリェイロ・フルタード街の「上塚周平橋」に名を示す標識が無いことで、ブラジル熊本県文化交流協会の田呂丸哲次会長に設置運動を依頼。もう一つはプロミッソン市街地と郊外の高速道路を結ぶ「Via de Acesso Shuhei Uetsuka」にも同様に標識がないこと。こちらは何と市長に設置を直談判したとか。思えば、東洋街のラルゴ・ダ・ポルボラにある上塚周平の銅像の眼鏡が数年前に盗まれてそのままに…。本紙記者がその銅像の目前で追いはぎ強盗にやられたのは、眼鏡がなくて周平の〃眼力〃が届かなかったせい?!
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