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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(79)

目論見、狂う

サンパウローパラナ線ウライー駅

サンパウローパラナ線ウライー駅

 1937年、矢崎節夫という長野県人の土地売りが、ピリアニットの8千アルケーレスの分譲を請け負った。残りの1千アルケーレスは、南米土地の直営地とされた。
 矢崎は8千アルケーレスをロッテアメントして、翌年売り出した。その対象は、主としてサンパウロ州のファゼンダで労務者として就労しながら、土地購入・独立の機会を待っている同胞たちだった。
 第一回分譲のロッテを買ったのは54人で、内51人が日本人であった。その中に市村小太郎という新潟県人がいて、息子の之(すすむ)が、後に有名になる。
 1939年の第二回分譲では、なんと、買手は日本人19人、非日系74人となってしまった。日本人が激減、非日系を入れないと、予定したロッテ数が捌けなかったのである。以後も同じであった。1941年までの買手は計509人で、日本人は221人であった。
 こうなった理由は、トゥレス・バーラスの場合と同じであった。入植者を募集したサンパウロ州で、棉景気が出ており、遠隔地への移動意欲が薄れていたのである。意欲がある者も、その多くは北パラナ土地会社がチバジー河以西で建設中の植民地を選んだ。
 ピリアニットも、トゥレス・バーラス同様、ファゼンダで労務者として働く日本人に独立の機会を与えようと、好条件でロッテを売った(つもりだった)。ところが、その日本人が、他の植民地へ行ってしまう……。なんとも、おかしな具合に目論見は狂ってしまった。
 北パラナ土地会社の植民地のロッテが、より魅力的だったのである。それと、前章で記した様に、同社の日本人部に居った氏原彦馬が、懸命にロッテを売り歩いていた。
 氏原は、実は、ピリアニットの1万アルケーレスを赤松総領事に仲介した男であった。その土地で植民地の建設が直ぐ始まれば、分譲も引き受けたであろう。が、もたついたため、別に仕事を求めた。その後、北パラナ土地会社に招かれ、日本人部を任されていた。
 氏原については、次章で詳しく触れる。
 1941年、日本が開戦、翌年、ブラジル政府は、敵性国資産凍結令を発した。1944年、南米土地は州政府の監察下に置かれた。
 同年、ピリアニットはウライーと改称された。(3年後、ムニシピオに昇格)
 矢崎の土地分譲は戦時中も続き、日本人の入植も若干はあったが、1945年、中断した。
 ここで話は全く変わるが、三章で紹介した『子供移民の回想』によると、戦時中は、この地域でも「憂国の至情押えがたい青年たちが、夜陰に乗じて裸馬に乗って暗躍していた」という。
 具体的なことは触れていないが、薄荷農場荒らしの様なことをしていたのであろう。

ラミー

 ピリアニット植民地、改称後のムニシピオ・ウライーの主作物は、無論カフェーであった。が、ラミーで広く知られた。
 この地でラミーの栽培が始まったのは、1930年代の中頃である。最初はモノにならなかった。1939年、海興支店長の宮腰千葉太が、日本へ一時帰国した折、東京麻糸㈱から、10本のラミーの苗を貰って持ち帰り、ここで試作した。
 順調な生育ぶりであった。それを知った東京麻糸から社員が派遣されて来て、1941年2月、植民地内に400アルケーレスの土地を取得、本格的な栽培に乗り出した。日本へ送ることが目的で、入植者にも栽培を勧め、これに応じた者も多かった。しかし同年12月、戦争が始まり、対日輸出は不可能となった。栽培者の多くは植えたラミーを放棄してしまった。