ホーム | 文芸 | 連載小説 | チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽 | チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(3)

チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(3)

 小田切剣は筆名で本名は清水美貴雄、日大の法科卒で窪田空穂系の歌人で、最初バラ・ボニータ区に入植し間もなく移住地を去った歌人である。
 戦後の一時期南米時事歌壇の選者であった。
 小田切剣は戦前改造社が発行した「新万葉集」に四首、昭和五十四年講談社発行の「昭和万葉集」に三首収載された優れた歌人であった。

 左に一首あて記す。    小田切 剣
  行きずりに礼して通る村人のネグロは町に勤めもつらし    新万葉集
  国遠く子にしたがいて移り来し嘆きは母の一生もちけむ    昭和万葉集

 華絵に就いて短歌を作り始めてから知らぬ間に二年の月日が過ぎ去った。
 そのころから華絵はコロニアで唯一の短歌結社誌「椰子樹」を貸してくれるようになった。坂根総領事が「椰子樹」の生みの親であり、岩波菊治がアララギ派の歌人でコロニア短歌界の大御所とも言うべき存在であることが初めて分かった。
 華絵は秘蔵の色紙や短冊も見せてくれた。草書の文字は当時の私には読めよう筈もなかったが、宝物にふれるような気持で手にとって見たことを今思い出す。「それから、これはねぇー私の先輩で故郷の郵便局に勤めて居られる方の歌です」と言って渡された谷折の和紙を開くと「山吹」と題して一連の短歌が行書で達筆に記されている。記憶している一首を左に記す。
        遠山 五郎
  雨にぬれて咲くが美し山吹の花の雫をにうけつつ

 若しかするとの万に一つの期待をかけて私は、昭和万葉集二十巻の作者略歴索引を調べた。あった。遠山五郎。明治四十一年生れ、会社員。郵便局員を経る。(華絵の言ったことと符合する)
 巻六、百十二頁、逸る心をおさえて百十二頁を開く。一首掲載されている。

        遠山 五郎
  面会に来たれる妻が刻おしみまなくひまなくもの言うをきく
  (昭和十八年の作品だから入隊した時詠まれた歌と思う)
 紙面に食い入るように、しばらく凝視していたがしずかに声に出して二回読みあげた。
 はからずも昭和万葉集によって五十数年経った今日、再び遠山五郎の作品を見ることが出来たこの喜びは大きい。
 短歌を作りはじめてから三年経った。私ひとりで作っているよりも仲間を殖やして、共に作歌に励もうと思い立ち同じ組に住んでいる鈴木千代吉、鈴木品次、吉川順丸弟姉妹、それと隣区の山田実 等に話しかけ、同意を得、一晩みなで志津野家を訪れ弟子入りをした訳である。
 仲間が殖えると競争心が湧くので作歌に一段と励みがついた。
 その頃バラ・ボニータ区の富岡芳子・君子・美津姉妹も華絵の添削を受けていることが分かった。
 ベーラ・フロレスタの産婆 井上豊乃も華絵門の一人であった。
 ペレイラ・バレット市の松島末野という方も華絵に歌を見てもらっていることが分かった。松島末野は岡山県出身で高等女学校卒と華絵はもらしたことがある。
 メンバーが揃ったので短歌の回覧誌を出しては、と言う華絵の提案に一同賛成、誌名は「寄生木」と華絵が名付けた。