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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(83)

 翌日、測量隊の一部はジャタイまで戻り、残りの荷物を何回にも分けてトゥレス・ボッカスまで運んだ。時にはオウリーニョスまで行き、必要な物資を調達してきた。その中には3千枚のトタン板もあった。
 トゥレス・ボッカスでは、早くもマレッタに罹病する者もいた。しかし仕事を急がねばならなかった。10アルケーレスの樹林の伐採、宿泊所、倉庫、事務所、住宅の建設、ジャタイ―トゥレス・ボッカス間の道の拡張――。これは彼らには無理だった。山伐り、建築、道づくりの業者を、遠くから雇って来て任せた。
 隊員たちは、本来の自分たちの仕事にかかった。測量し図面を引いた。第一期計画として3万アルケーレスの植民地を造成することになった。一カ所ではなく、数カ所の合計である。
 図面は、農場地帯と市街地から成っており、いずれも細かく農場用、商店用のロッテに仕切ってあった。
 
日本人が一番手

 会社の土地販売人がやってきた。1929年12月だった。その中の一人は日本人だった。これが、前章と前々章で名前の出た氏原彦馬である。
 氏原は視察後、一旦、引き上げると、早くも同月、8人の日本人を連れてきた。その折、道づくりの一部を請負っている日本人が居って出会い、双方が(こんな処に日本人が……)と驚いた。
 翌年、8人の内6人が農場用ロッテを買った。会社にとっては、記念すべき最初の購入者であった。
 同年、ジャタイ―トレス・ボッカス間に自動車の通れる道ができた。それを機に、この植民地はロンドリーナと命名された。パラナ州政府の要人が、植民地の建設者の英国人に敬意を表し、そう提案したのである。小さなロンドンという意味だが、大樹海の中に木製の建築物が幾つかあるだけだった。
 その樹海の中には、未だ文明人とは接触の無いインヂオがいた。ある時、会社の従業員たちが車で走行中、ラジエーターに水を補給するため停車した。水を汲んでいると、アチコチから、拍子木のようなもので樹を打つ音が響いた。インヂオの威嚇だった。矢が飛んでくるかもしれなかった。皆、走り出そうとした。が、一人が制止し、平静を装うよう指示した。インヂオの声は聞こえたが、姿は見えなかった。ただ絶え間なく樹を打つ音が響いた。皆、少しずつ自動車に近寄って行き、ラジエーターに水を入れ、全速力で走り出した。
 1931年、入植が始まり、年末までに9人が到着した。内7人は農場用ロッテの買い手で、3人が日本人だった。(前出の6人とは別人。6人の入植はやや遅れた)残る2人は、商店用のロッテの買い手であった。アルマゼンを営む非日系人だった。
 
33カ国人が入植

 北パラナ土地会社の植民地造りは、垢抜けしていた。アーサー・トーマス総支配人や主な社員が、前任地アフリカのスーダンで経験を積んでいたのである。
 同社は、まず土地の購入に際しては、地権の確実性を絶対条件とした。後々、入植者が係争に巻き込まれないためである。当時、その種の揉め事がやたらと多かった。 健康地であることも重要な条件であった。従って風土病の発生源となる湿地帯は避けた。
 主作物は無論カフェーを予定していた。
 農場用ロッテは、当時は何処の植民地でも10アルケーレスであったが、同社は5、10、15、20アルケーレス……と幾種類も用意した。支払い条件も融通をきかした。いずれもロッテを買う人々の都合に、キメ細かく応じるためであった。