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チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(6)

 昭和初期のチエテ移住地で、開拓に明け暮れた移民妻の哀歓を叙情豊かに歌いあげた華絵作品は二十四歳から三十歳までの歌であることを想うと華絵がコロニア短歌界に残した足跡は大きい。
 椰子樹編集長の清谷益次は近年、日伯毎日紙に、特に華絵短歌を採りあげて三回に亘って歌評したことはまだ記憶に新しい。
 私に一生短歌を持ちつづけることを約束させた華絵は、何故か戦後再刊した椰子樹にも新聞歌壇にも作品を発表することなく世を去った。
 何が原因で作歌を絶ったのか? 私には今もって解けない謎である。
 コロニア万葉集が発行されたとき私は一本をたずさえてサンパウロ市のサンターナ区に居住する遺児志津野豊を訪ねた。
 あれから、もう十六年になる。
 芸事では弟子の芸が師に勝ったとき、始めて師に恩がえしができたと聞く。
 私の短歌作品は、まだ師華絵に及ばぬかも知れない。
 移民七十年祭の折、祭典委員会が募集した「移民祭の歌」に応募した私の作詩が入選して曲まで付いたことは、亡き師華絵にいささか報いるところがあったと心におもう。華絵の良かったことは初歩文法でよいから学ぶようにと言ってくれたことである。歌会に出席するようになって華絵の言ってくれたことは正しかった、と感謝している。何一つ資料もなく古い記憶を呼び起こして書き綴ってきた。五十年前「寄生木」によって共に作歌に励んだ歌友の一人、一人に想いを馳せて感無量である。
 この度、イビウーナ市在住の香山栄一が「思い出で綴るチエテ移住地の歴史」を編むにあたり、私にも発表の場を与えて下さったことに深く感謝する。
 最後に、亡き師華絵のご冥福を心からお祈りし、師との約束を守って私は今も短歌を作りつづけていることを心の誇りとしてペンをおく。
(チエテ移住地「拓魂のうた」より転載)(加筆削除す)

    (2) 幻の歌集

 歌人志津野華絵の提案で、回覧誌「寄生木」を出すことに決まったのは、昭和二十一年の秋であったと思う。
 その頃チエテ移住地には短歌の実作者が二十人近く居たので、回覧誌を出して一人でも多く同じ趣味の人を殖し、ゆくゆくは移住地の短歌誌に育てあげたいということが華絵の夢であった。
 或る晩、私は歌を見てもらうため志津野家を訪れた。添削が終わり歌評も済んでから、華絵は「珍しい本をお借りしているので見せましょう」と言って部屋から、一冊の古めかしい本を持ってきて私の前に置かれた。
 本は和綴で、一目見て並の本でないことが解かる。
 表紙の真中に「千々迺舎集千種有功」と書かれてある。行書の毛筆の字が素晴らしい。
「公家さんの本ですね」「そう、公家さんの歌集です。よく分かったのねえー」
と言われる。
 千種有功(一七九七~一八五四)江戸時代末期の歌人で、号は千々迺舎、左近衛中将。香川景樹と交わり、二条派の家風を脱し、一種の風格を持った『歌集千々迺舎集』(日枝の百枝)などがある。
 表紙をめくると、上質の和紙に黄葉した実物大の公孫樹の葉を数葉あしらってあり見た目に美しい。歌は草書で一行書き一頁に五首あったと記憶している。木版刷の歌集である。