しばらく草書の字を見つめていた私は「何と読むのですか?」と尋ねると、「私にも読めないのよ。主人が生きていてくれたら、このような字は訳なく分かったのに」と言われるのであった。
華絵の亡夫、甚一は能書家であると共に文学の嗜みの深い人であった。
「志津野荘一」のペンネームで昭和十二年頃、サンパウロ州新報に連載小説を寄稿していた。その新聞の切り抜きを華絵から見せてもらったことがある。
「それで、この歌集の持ち主はどなたですか」
「この歌集はねぇー飯島清君が、高津の奥さんの蔵書の中から、希覯本だといって借り出して持ってきたのです」
「それじゃ、高津の奥さんに訊けば分かりますね」
「そう、高津の奥さんは学問があり、教養の深い方だからおたずねして訊くとよいのだけれど忙しくてその暇がないと言われる。でも主人の使っていた草書の本があるから暇な折り調べて見る」と言われるのであった。
千々迺舎集の所有者、高津の奥さんのご主人はベラフロレスタでホテルを経営すると共に、ペレイラ・バレット市までの乗合いバスをお抱え運転士に一日一往復ではあったが運行させ、自身は棉花の仲買人もやり、ベラフロレスタ管内では一番の顔役で大きな家には、いつも居候が二、三人は居た。
奥さんから「千々迺舎集」を借り出した飯島清君もその一人であった。
高津の奥さんが歌を詠まれることを私は、華絵から手ほどきを受ける前から知っていた。と言うのはチエテ移住地は毎年、入植祭が行われたが、十五周年祭は盛大に催された。余興の一つとして「宝探し」があった。
商品は一等から五等まであった。「宝探し」の鍵は「謎入り」の歌であった。
歌の謎を解読した者が賞を得る。という趣向であった。
焚火スル人山ヒトノテノヒラニ、ニギレル宝タレゾ見イダス
という短歌であった。私が市街地へ着いた時は、宝探しの真最中であった。
大勢の青壮年達が鍬を持って高津ホテルの前庭を削っているのだ。それを見ている人達で、歌に詠まれている如く周りは人の山である。
吾れこそ宝クジを得よう。と前庭を必死に削るので土埃が赭く舞い立つ。
そこへ高津の奥さんが大慌てにとび出してきて、「皆さん 庭をいくら削っても『宝クジ』はありません。土埃が家の中に入って困るから止めてください。
『宝クジ』は私が隠したのですから他の場所を探してください」との言葉で一同鍬の手を止めた時である。
「アッタ!『宝クジ』見ツカッタゾ!」と誰かが叫んだ。
「オイ ドコニアッタ」
と異口同音に訊く。「此処のサボテンの中にあった」と言う。
どうしてサボテンの中にあると分かったのだ。解いて聞かせてくれ、と誰かが言う。
「ウン、これから歌の謎解きをするから皆んな、良く聞いてくれ。いいかね。まず最初の歌の第一句が(焚火スル)だ。焚火をして火に当たっていると顔がホテルから、高津ホテルの前庭に大焚火をした跡があるので第一句は誰にでもわかる」。