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チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(8)

 「次は第二句だ。いいかね。人山ヒトノテノヒラに、この第二句は解読するのに時間がかかったが苦心してやっと解くことが出来た。人山人は、仙人のことだ。人べんに山は仙だ。仙の下に人があるから仙人となる。次は手のヒラだ。『仙人掌』でサボテンと云うことが解った次第。宝クジはサボテンに針で止めてあった。六十キロ入りの白米一サック私が頂くことになりました。悪しからず」と後はおどけて言う。
「いや、K君えらい。よく歌の謎を解いた。オレ達は鍬を持ち出して大さわぎしたに過ぎない」
 つまるところ頭の問題だと誰かがつけ足して言う。
 大さわぎの中に一等賞の宝クジは見つかった。メデタシ、メデタシである。
 この宝クジに、謎入りの歌を作られた高津の奥さんは並の人でないことがこの一事でよく分かる。

 華絵の提案の「寄生木」創刊号は昭和二十年の十月に出されたが、その中に千種有功の歌が三首載っていた。華絵は「苦心惨憺してやっと三首だけ詠むことが出来た」と言われた。
 ところが三首の歌は公卿の歌と云うには似つかわしくない歌なのでビックリさせられた。何と三首とも狸を詠んだ歌であった。
 いま思うと千種有功は当時としては進歩的な歌人であったことがよく分かる。
 とにかく千種有功の歌三首で「寄生木」創刊号を飾ることができた。
 華絵の満足おもうべしである。
       ☆  
 想えばあれから五十有六年の歳月が知らぬ間に過ぎ去った。私は折につけ今でも「幻の歌集千々迺舎集」を思い出す。
 五年前であった。サンパウロ市の老人クラブ会館で「ベラフロレスタ会」が催された。
 運よく高津ジョルジ君と同席したので、私はそれとなく「千々迺舎集」のことを持ち出して今の私なら、あの草書の歌も読めると思うので貸して頂けないだろうかと言うと、「母の遺品は大切に保管してあるので調べてみます。
 私には必要のない本、有ったら進呈します」と言われ嬉しかった。
 翌年の「ベラフロレスタ会」も同会場で催された。ジョルジ君も見えていた。
「藤田さん 母の遺品の中に『千々迺舎集』は無かった。妹が母の形見に持って行ったのだと思う」と言われる。
 私は、ハット気付くことがあった。ジョルジ君の妹A子さんは北御門家(公卿の出)へ嫁がれたのでお母さんの形見に持って行かれたのであろう。
 良かった。千々迺舎集はA子さんが所持して居られるのが一番ふさわしい。
 北御門家では家宝の一つに加えられて居られることを思うと、私の心は仄々と胸あたたまるのであった。
 コロニアでは数少ない希覯本の一つ「千々迺舎集」を吾が若き日に一寸だけだが手にとって見ることが出来たのは歌詠みの一人として生涯忘れることの出来ない眼福の一つであったと年老いるに従って染みじみ思う今日この頃である。(椰子樹より転載、加筆削除)