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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(91)

一つ一つ手放し…

 そのうち、幸い、アリアンサの職員白戸和子さんや農産組合インテグラーダの幹部職員大原シロウ(四郎)さんが、柞磨宗一の縁者、前田パウロ氏を探し出し、事情を聞き、筆者に伝えてくれた。
 前田氏は若い頃、学業のため、ロンドリーナの柞磨宅に寄宿、後に仕事も手伝ったという。
 同氏によれば、柞磨宗一は、1962年、デハメを患い、事業からは遠ざかった。後は長女が継ぎ、長男と次男が、これを助けていた。前田氏も1963年から柞磨の死の数年後まで協力した。
 ということは、柞磨がアリアンサに関わったのは、その病気がある程度回復した後ということになる。
 前田氏はポ語文で「幾つかのファクターが、柞磨氏が築き上げた広範な資産から、投下資本を回収すべき要因になっていた」と分析している。広がり過ぎた事業の内、不要分を売り、流動資産を蓄えておくべきだった││という意味であろう。
 柞磨の事業の継承者たちにとって、不運なことに、経営環境は一変していた。主作物のカフェーは、生産過剰になっていた。前田氏によれば、1960年のブラジルの生産量は輸出可能な量の2・5倍もあり、1962年には輸出3年分の在庫があった。パラナ州のカフェー生産量は、ブラジル全体の半分を越し、さらに増え続けていた。無論、市況は低迷していた。
 先に記した様に、大戦後の大好況の中で、チバジー河以西へ大量の入植が続き、これが皆カフェーを植えたのだから、そうなるのは当然であった。
 政府は生産調整のため、考えられるあらゆる手を打ったが、効果が出始めるのは1970年代に入ってからである(その間、柞磨は71年まで生きていた。事業との関係は不明であるが、彼が乗り出しても、どうにもならなかったであろう)。
 以下の殆どは、本稿ですでに触れたことであるが、市況の低迷以外にも、カフェー生産者は降霜、セッカ、火事、さび病(フェルージェン)、農村労働法問題、大凍害……に見舞われた。加えて、連邦政府の失政の結果、1980年代には、ブラジル経済は大破局に突入、ハイパー・インフレが発生、銀行金利は狂騰した。治安も極度に悪化した。
 こうした時期に、柞磨の後継者たちは、事業を維持するため、銀行融資に頼ったという。そして結局、銀行やフォルネセドールへの負債を清算するため、資産を一つ一つ売却することを余儀なくされた。残りが無くなるまで……。
 この「一つ一つ………残りが無くなるまで」の部分を読んだ時、筆者の視線は、そこに釘付けになった。
 大ファゼンデイロ柞磨宗一の事業も、当時あった他の事例と同じく、青空高く浮かぶ白い雲の様に、フト気がつくと、消えてしまい、そして世間から忘れられていた――のである。それを知った時、筆者は思わず内心(これもか!)と呻いてしまった。
 
呑み込まれる小農
 
 1975年にパラナ州を襲った大凍害の被害は、チバジー河以西でも同じだった。殆どのカフェー生産者が決定的なショックを受け、新植意欲を喪失した。意欲を持つ人は、北伯へ移動した。残った人々は、試行錯誤の末、大豆などセレアイス栽培に落ち着いた。日系人も、そうであった。
 セレアイスは、幸い一時期、順調に行った。しかし、これも他地域と同じく、次々と難問が発生した。特に深刻だったのが、例の労働法の一件である。この頭痛の種を取り除くためには、雇用する労務者の数をできるだけ減らし、営農を大型化し機械化する以外なかった。