チバジー河以西の日系人は元々、小農であった。大型化・機械化など簡単に出来ることではなかった。ために土地を売って離農する人が多く出た。偶々、運に恵まれ資金を蓄えていた人が、それを買い、規模を拡大、機械も導入して行った。かくして、ここでも小農は呑み込まれるという流れが生まれ、これが長期化、現在も続いている(収穫物の一部を受取るという契約で、土地を貸しているケースもある)。
1980年代、カナの栽培が始まった。小面積の土地所有者は、ウジーナに土地を売ったり、賃貸ししたりした。あるいは日本に出稼ぎに行った。これで救われたことも、他所と同じだった(五章で記したウジーナの支払い問題は、地域によって異なる。良質なウジーナがある処は、被害はないが、そうでない処もある)。
ともあれ日系農業者の数は減った。コチア、スール解散後、さらに減って、全盛期の半分以下になった。もっとも、半減なら、歩留まりは良い方である。それと、この地方も、大農の出現で、生産量は増えたという。今は「大規模にセレアイスをやる。そうでない限り、百姓は続けない方がよい。苦労して貧乏するだけだ。中途半端でもいけない」といわれる時代になっている。
コチアが生き返った!
ともあれ、セレアイスのモビメントは年々増えてきた。
2015年の中頃、筆者はロンドリーナで「コチアが生き返った!」という意味に受け取れる噂を耳にした。
21年前、コチアが解散した後、北パラナの組合員がつくったインテグラーダ農産組合の経営が至極好調だというのである。その話を聞いた瞬間、筆者は『コチアが生き返った!』と思った。
しかも、経営が軌道に乗ったのは、かつてコチアを地獄に引き摺り込んだアサイ紡績工場がドル箱になって稼いだためだという。話し手は、こう結論づけた。
「以前は、コチアを恨み骨髄に思っていた人もいた。今では、コチアだからこそ……と言ってくれる」
さアー、こうなると、ますます話は愉快になる(消えてしまった後、再び現れる白い雲もあったのだ!)と、新しい発見に気分が昂揚した。
1980年代以降の、日系社会の無数の事業の消滅を見続け、北パラナでも同様の例に出遭い、滅入っていただけに、救われた気分だった。
幻覚だった!
そこで、筆者は弾みながら、その話し手とインテグラーダの本部を訪れた。主だった関係者数人が、親切に応対してくれた。が、意外なことに話は噛み合わなかった。
筆者の「コチア生き返り」説には、先方は複雑な表情であった。経営は確かに好調の様子であったが、インテグラーダとコチアを結び付ける見方には迷惑そうだった。「コチアの……というのは……どうも…」と。紡績工場ドル箱説にも曖昧な反応だった。筆者の取材は空回りした。
コチア産組は、法的には、各地方に在る十の単協とそれを統括する中央会によって構成されていた。
1993年、コチアの経営瓦解が表面化した時、これをタイタニック号の沈没に譬えた新聞記事があった。それにヒントを得たわけでもあるまいが、瓦解の処理に当たった中枢部は「負債を全て中央会に背負わせて海に沈め、単協を切り離して生き延びさせる」という策を選んだ。
しかし、それは直ぐ無理と判った。その単協は、法的に中央会の延長と見做され、債権者の債権回収の手が、執拗に追及してくる、逃げ切れない││ことが明瞭になったためである。
それと運転資金の調達も難しく、殆どの単協が(農協としての)事業継続を断念した。