国交を開いた「日伯通商修好航海条約」(1895年)が調印される遥か前から、ブラジルに住んでいた日本人が何人かいた。いわゆる「農業移民」ではない。当地初とおぼしき「日本人自由渡航者」に軽業師「竹沢万次」がいる。なんと1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや南大河州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業して歩いたと言われる。当時、日本には本当に竹沢万“治”という有名な曲コマ師がいた。この二人は同一人物なのか? この謎を軸に、型破りな明治の日本人の足跡をたどってみた。
軽業師「竹沢万次」について最も詳しいのは、文句なしに鈴木南樹(貞次郎)著『埋もれ行く拓人の足跡』(1969年、51~53頁、以下『足跡』)だ。わずか3頁だが、現在までに日ポ両語で万次について書かれた文章は、ほぼ全て同書からの引用だ。
南樹自身も笠戸丸以前に渡伯した“神代の世代”の人物であり、博覧強記で知られる。「直接に本人から聞いた」とは一言も書いていないので、その幅広い人脈で集めた伝聞をまとめたのがこの一文だろう。とはいえ、息子ラモスと嫁の写真はあっても万次本人のものすらない。
いわく万次は《四国の生まれらしく士族》で、《明治の革新は武士である万次をして大阪に出て軽業師になることを与儀なくせしめた》とある。
『足跡』は渡伯時期を限定していないが、《一八七〇年の前田重左エ門の切腹事件と相前後して》と推定している。つまり、明治3年。一般の日本人が外国に出ることは不可能だった時代だ。何年に、どう渡伯したか分からない―いわば謎の人物だ。
帝政時代にリオ市に上陸し、《ドン・ペドロ二世に雇われて体操教師になった》が、1889年に軍部のクーデターで共和制宣言(=帝政廃止)となり、浪人に。《万次は珈琲の大景気の波に乗って自らシルコ(サーカス)の一座を組織し、ブラジルはアマゾナスから、リオ・グランデ・ド・スール州はもちろん、ウルグアイ、アルゼンチンまで股にかけて興行してまわった》と書かれている。
ウルグアイ国モンテヴィデオ市で興行中にイタリア娘と結婚し、1898年頃からのコーヒー価格大暴落の不景気と大雨のために没落の憂き目に遭い、一座を手放し、一介のアクロバッタ(軽業師)にもどった。
笠戸丸の2年前、1906年にサンパウロ市サンベント街に最初の日本人商店を藤崎三郎助が賑やかに開店して間もない頃、万次は渡伯以来、初めてなつかしい同胞を訪ねた。
でも20数年も日本語を使っていなかった万次は、「天皇陛下はまだご存命ですか?」と片言のような日本語でしゃべっただけだった。南樹は《万次はさすがに武士であり、日本人である》と、後世数限りなく引用された伝説的な逸話を初めて記した。(つづく、深沢正雪記者)
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