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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第2回=拳銃自殺図った悲劇の芸人ラモン

竹沢万次の息子ラモンと妻アルレテ(『足跡』より)

竹沢万次の息子ラモンと妻アルレテ(『足跡』より)

 1870年といえば、明治3年――維新政府発足間もないころ、笠戸丸より38年も古い。そんなころにブラジルに上陸した日本人とは、どんな人々だったのか。
 藤崎商会の藤崎三郎助以外に、もう一人だけ直接に万次と対話した人物のことが『足跡』に書かれている。1916年にミナス州ウベラーバで畜産技師をしていた石橋恒四郎(つねしろう)だ。
 鈴木南樹は《シルコの持ち主として、訪問を受けたが何を話しているのか、万次の日本語を殆ど了解することができなかったということである》(『足跡』52頁)と記した。石橋は同地に日本人20余人を集めて水稲を成功させ、日本人初の組合「日伯産業組合」を組織した農業界の先駆者だ。
 『足跡』によれば、竹沢万次の子息はみなサーカス芸人となった。万次は家族を中心に一座「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)を作り、全伯を巡業した歩いたようだが、4人の息子、3人の娘を残して1918年に〃不治の遺伝的な疾患〃で死んだと『足跡』にはある。
 1940年6月9日、ミナス州都ベロ・オリゾンテで長男のラモン、芸名「Togo(東郷)」がピストル自殺したとの悲報が流れた―と書く。出典は書かれていないが、サーカスの一芸人の自殺を報じるのだから、おそらくミナス州の現地紙ではないか。ミナス在住の日本人の伝手で、南樹はそれを手に入れたと推測される。
 《ラモンは父万次の仕込みで綱渡りやブランコの上の軽業が巧妙を極めていた》。でも鈴木南樹は《父の万次は日本と云う故郷を持っていたがラモンにはそれがなかった》と指摘する。
 父が死んだあとラモンは一座を維持できず、ケーロロ一座に入って働いた。サンパウロ市で公演中、毎日のように通ってきたアルレテに見染めて結婚、彼女も踊り子となって評判の一対となった。
 でもラモンも父と同じ病気を抱えていたらしく、最愛の妻にも腹部の苦痛を隠していた。妻の強い勧めで医者にいくと言って家を出たラモンは、サーカスの化粧部屋でピストル自殺を図った――というのが鈴木南樹による、物悲しい竹沢家の生涯紹介の概要だ。
   ☆   ☆
 『海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯』(大島幹雄、平凡社、1993年、以下『サ芸人』)には、《明治以降、日本の曲芸とサーカスは海外で高い評価を受け、多数の日本人芸人が欧米のサーカスや劇場などで活躍していた。おそらく数にすれば千人を超えていたと思われる。その中には、異国で土地の者と結婚し、そのまま海外に残った芸人も何人かいる》(6頁)。
 これは、欧州最大のサーカス団の花形になった沢田豊のことを指す言葉だが、まさにブラジルの「竹沢万次」もそんなコスモポリタンの一人だったといえよう。
 折しも当地ではカーニバルのパレードが華やかに行われたばかり。そこで欠かせないのはピエロや曲芸といったサーカス的な要素だ。かくもブラジル文化の根底には、軽業師や道化師に対する憧れや興味が深く根付いている。その奥深くのどこかに、竹沢万次の歴史が埋もれている。(つづく、深沢正雪記者)