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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第5回=サンパウロ市に文化をもたらしたサーカス

日本人軽業師が公演した旧サンジョゼ劇場は、19世紀のサンパウロ市における文化の中心。焼失する前の貴重な写真

日本人軽業師が公演した旧サンジョゼ劇場は、19世紀のサンパウロ市における文化の中心。焼失する前の貴重な写真

 前節でエスタード紙1886(明治19)年9月4日付の「コンパニア・ジャポネーザが、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」と紹介した。このサンジョゼ劇場は現在、存在しない。
 ヴェージャSP電子版(vejasp.abril.com.br/materia/o-teatro-sao-jose)によれば、同劇場は1864年にラルゴ・サンゴンサーロ(現在のジョン・メンデス広場)に建設された。19世紀のサンパウロ市を代表する劇場で、1200人収容。イタリア、ポルトガルの劇団を始め、様々な国際的興行の中心地だった。
 その次にエスタード紙に日本人軽業師の広告が現れるのは10年後、1896(明治29)年8月6日付だ。
 オーストラリアのサーカス団「ヂアス・ブラガ」の長い、詳細な告知の後、小さくサンジョゼ劇場の予告が入っており「この劇場ではもうすぐ、ロンドンのオリンピア劇場で大成功をおさめたばかりの、フリデマン(Friedmann)率いる日本のサーカス団が公演する予定。近日中に出る予定の告知にご注意を」とある。
 この「ロンドンのオリンピア劇場」はポ語読みで、通常は「オリンピック劇場」、当時ロンドン、ニューヨークに実在した超有名な大劇場だ。
 19世紀後半、サンパウロ市はコーヒー景気をむかえ、単なる田舎町から都市に変貌しようとしていた。まず1867年にサントス=ジュンジャイー鉄道が開通し、サンパウロ市を起点に次々に各方面に鉄道網が伸びている時代だった。
 1875年にサンパウロ=ソロカバナ鉄道、1876年にサンパウロ市とリオをつなぐセントラル線のサンパウロ市=ジャカレイー間が開通、パウリスタ線のサンパウロ市=リオ・クラーロ間が開通するという具合だ。
 コーヒー貴族が次々に生まれる中、サンパウロ市セントロにはようやく文化の香りが漂い始めた。ところが1898年に同劇場は火事で焼失。数年後に御茶ノ水橋の脇(現在のショッピング・ライチ)に3千人収容の新サンジョゼ劇場が建設された。
 1911年にはそのすぐ向いに、パリのオペラ座を模した本格的な「市立劇場」が建立される。ここを舞台に1922年に「現代芸術週間」(Semana de Arte Moderna)が開催され、華やかなリオに比べて〃文化不毛の地〃の印象が強かったサンパウロ市に、文明の灯りを燈した記念すべき場所だ。
 サーカスや演劇はまさに文化そのものだった。そんなサンパウロ市産業勃興、文明開化的な時期が、例の広告の出た1886年だ。
 奴隷制度が廃止される2年前でもあり、欧州移民がコーヒー農園に大量に導入され始めた時期だ。1889年には軍部クーデターにより共和制宣言が出され、帝政が廃止された。大きな時代の境目だった。
 奇しくも、後に日本人布教の中心となるサンゴンサーロ教会の辺り、戦前の日本人街コンデのすぐそばにあった旧サンジョゼ劇場に、笠戸丸の22年前、実は日本の軽業師一座が来ていた。(つづく、深沢正雪記者)